よつまお

過去ログ倉庫を兼ねたライフログ的な雑記ブログ。記事ジャンルにこだわることなく、不定期更新でゆるゆる運営しています。

 

【総論-AntiNa-】記事から分割された項

(約25,000文字) ジャンプされて来たかた、真のまとめへようこそ。

分割元記事:

リンク元の項:www.yotsumao.org/entry/antinatalism#蛇足でありつつここであえて批判的総論

(もし当記事に意図せず迷い込んでしまった場合、前提となる元記事中盤のリンク元・上記項を一読されることをお勧めする)


 

まず、界隈を取り巻きライトに称賛する「うっすら」信奉が、ある意味で最もタチが悪いと考える。

うっすら信奉ほど、安易にその選択肢を社会全体に認めさせようと、大した考察も戦略もないままに社会運動化を賛美する。

「そうなればいいなぁ」という内心に抱く思いと、「そうなるべし」の実際の行動の間には本来大きな隔たりがあるものだが、個人の願望に留めることなくセカイのスタンダードとして推し進めようとする。

時の変遷やテクノロジーの発達を伴った自然発生的な変化ではなく、実に急進的な人工的な変革を望む。

その過程で脱落するものがまるで皆無かのように、そしてその落伍者に自らは決してならないとも言わんばかりに。

社会に参加してもの申している、ひとりの思想家、専門家にでもなったように。この感覚が常識との適応を蝕み狂わせる。

 

そもそも反出生界隈の各々が抱く主義主張が、かなりバリエーション豊かなゆえもあるなのだが例えば、子供なんて作りたい人が作ればいいよね、生みたい人が産めばいいよね、

いわゆるDINKsでいいよね、それぞれの自由だよね、なんていう軽いノリとは全くもって一線を画していて、ディープな論者の思想内には文字通り深淵が広がっている。だからこそ軽々しく名乗るのは非常に危うい。

※おそらく一部は、便宜的に一言で他者に自身のポジションを説明するために反出生と名乗っているだけ感もあり、だからこそ界隈の思想の中身が客観的にかなり濃淡があることにも繋がっているのだが、

そもそもこの主義が展開する論の最終的な帰結としてはあらゆる生命の全消滅に等しいのであって、わざわざ不必要に「過激派」のスタンスと同一視されかねない名称に迎合する必要は無いはずである。

 

なお、ここで言う「うっすら」というのは、個々の信条や事情によって、子を持たないという選択をしたなど、自らの思想のごく一部だけを反出生に重ね合わせて、

自身が無意識的に抱く社会からの疎外感や罪悪感を払拭し、結果として他者からの肯定感を充足している場合、

または、自身の内面における何らかの満たされない感情や、外界や他者に感じる不満や矛盾などの諸々の思いを、社会全体ひいては人間の病理のゆえであると転嫁する理由の一つとして掲げている場合、などと定義する。

あえて厳しく言えば、個々の事由をさもセカイ全体に相対化し、問題の矛先を局所に集中化・矮小化しつつ、自身の正当化を試みる。

 

もう少し噛み砕けば、各自にとってそれは周囲の環境が変貌し、個々が持つ「生きづらさ」なるものが解消すればよいだけの話であって、滅びの筆頭になりたいというわけでもない、つまり反出生である絶対の必要性を伴わない状態である。

要するに、公的な分析や研究など関係なく、単に自らやごく身近な環境における個人的感情のみを「正論」の大いなる根拠として、他力によるラディカルな運用に安直に憧れる者たちを指す。

もちろんこれが「明日への活力」になれば何ら他者が口をはさむことではないかもしれないが、かえってドツボにはまり「生きづらさ」を加速させる者も散見される。

 

※それは例えるなら、ヘルシーさだけに着目してヴィ―ガンに「目覚めた」結果、かえって健康を害したり必要なモノが手に入れにくい不自由さをうったえたり、環境や動物への極端な慈愛を万人にヒステリックに啓蒙し始めたり、

(「食」で言えば、食べ物に含まれている砂糖や油脂はこのくらい!と実に単純に可視化されたものを見てしまったり、いわゆる屠殺の現状を垣間見たがために、食の範囲を狭める不幸も同類だ。多感で繊細な人にとって、目を背けあえて知らないことも幸福の一つなのである。)

または優位な女権や同権という心地よさに憧れてフェミニストに「目覚めた」結果、現実世界のあらゆる部分に不満や不備を発見して、男性シャカイなるものを見ると汚物のように感じ息苦しくなるような、本末転倒な心理状態と言えようか。

あるいは海外で、首が痛い・肩が重いといった表現を、本邦では「肩こり」と表すことを通じて、新たな概念による苦しさを発見してしまったようなものでもあろう。

 

さらに付け加えれば、思想達成の過程でまず行われるのは大いなる社会実験であって、必ずしも自らが恩恵を享受でき、意図したものになるとは限らず、かえって窮地に陥るかもしれない、ゆえに不可逆性が極めて高い、とは微塵も想像できない人々のことである。

(無論、そのような事態が起きても、どのみち滅びればよいのだから無問題、という主張さえ成り立たせうる)

 

※そのため、例えば思春期・青年期や壮年期前半にありがちな、「現代社会や大人たちの歪みの発見」「世の中の真実を知っているという姿勢」「多数の無自覚な他者とは違う理性的な自らの知性や個性」の表示として信奉している場合や、

あるいは既存の何かに疑問を呈したり、冷めた目線で斜に構えた方がかえって思慮深く冷静であるという外部評価を得られる場合など、そういったいわゆる「ファッション的意図」が見え隠れ、ないし自覚している者とはやや一線を画すことになる。

(そもそも、世間の反○○などのアンチテーゼの類いは、「何かに反対するだけで」簡単に一般ピープルが理性的な専門家にでもなったような気になれる、というリターンが存在するので人々の一部はハマっていく。)

 

つまるところ、この主義はうっすら信奉者にとって、昨今流行りの自己肯定のための思想の傍流のようなものだ。しかしここに、他者否定や既存システムのセカイ否定がジョイントされていることで、相対的な自身の価値向上も自動的に手に入る仕組みになっているため、一層質が悪い。

 

元記事の前項でも触れたようにアカデミックな、例えば経済分野であれば自身が信じて研究、ないし提唱している説があっても、現実の問題がそれに則さずその打破が急務となれば、

ひとまず自らの社会学的な信念を脇において、とりあえず効きそうなモノは政策的に全部やれ!と提言する柔軟さがあったりする。

※合理的期待仮説で名を知られるロバートルーカスの、リーマンショック時の言説などまさに良い例。

 

これは学者が日和ったわけでもブレたわけでもなく転向したわけでもなく、単に理論と実践は別だという現実的な対応。

その一方、アンチナタリズムでは、そもそも自身が唯一無二の正解と説いているわけで、一度それを主張したらむしろ上記のような「裏切り」が許されない感があって、

そういった構造的な空気を考えると、党派性を排除したり時に他者との(他主義との)寛容な協力関係をなすことが非常に難しいのではないか。

 

自然と界隈内では同調を求められるから、結果的に他者からの身内への批判を許さない。皆同じ思想であって最適解で唯一の「真理」という名のゴールを共有しているのが前提であるために尚更。

これが実に左派的で、万が一組織が成長していくと共に、間違いなく既存のムラ社会特有の利権に結び付き、それを享受し続けようとするためにいつまでも理想を達成しようとしない、さらに常にどこかに歪みを見つけ出し何かにつけて文句をつけ続け、永遠に達成させない戦いを下っ端は特に強いられるだろう。

 

思想には、ある意味で適材適所というものがあると考える。

あえてステレオタイプに言えば、異端排除の主婦的、または女子高的メソッドは狭いコミュニティだからこそ上手く機能する。

かといってシャカイという広い世の中ではそのまま適用することが出来ない。これをフェミ的には男性シャカイゆえと断ずるが、そうではなかろう。

内輪のノリを範囲拡張した結果ともいえるtwitter上ではどうなっているか。ハッシュタグ祭りなど代表的だが、過激思想に拍車がかかり収拾がつかなくなる一方で、リアル社会の「変わらなさ」に絶望するというループ。そしてまたネット上で身内とより先鋭的に、という流れは火を見るより明らか。
二項対立的にいえば、個人の利益が集団に通ずると考えるか、集団の維持が個人の利益を最大化すると考えるかの違いのようなもの。

過激思想になればなるほど、その思想を狭いコミュニティからシャカイに提示する時、女子高的メソッドでいうところの先生的「管理者」不在では、集団や環境そのものがいつの間にか壊れるのである。

 

また別の視点では、反出生的な文脈における「成功」=主義を全うした結果、のロールモデルが欠如している。

この成功の絶対的サンプル数が僅少なのに、それを信じ、全うし、貫くことを万人に求めるのはいささか酷なのではということ。

はなから恵まれていた釈迦や、大業を成したガンジーなどの一部の例外を、この主義における「体現者」とするのはさすがに飛躍しすぎであろう。

そもそも成功とは、語り継がれるからこそ認知されるわけで、そのためには子孫ないし次世代の存在が不可欠であるが、それすらも否定しうる思想なので、尚更憧れを抱きづらい。

つまり、引き継がれる歴史が無いから語り継がれることもない。

どこぞの昔ばなしよろしく、せいぜい「この思想によって界隈で仲睦まじく暮らしましたとさ」が関の山であって、かような漠然としたものに憧れるものがいようか。

 

この思想が、個人を救う一つの人生の規範にはなり得ても、多数に理解されるべきで賛同が期待できると考えているなら甘すぎる。

救い=不幸には確実にならない(界隈的にはそれが「幸福」)という図式は詭弁である。ここでいう救いとは、新たな罪を生み出さないことを意味していて、それは全ての滅びと地続きである。

そもそも自らの死後の、全ての滅びを願って実行し続けられる者がどれほどいようか。
何も残さずに、全てが残らないことを願って、自らはもとより全てが無くなることを希求して、その達成を一心に引き継げる直系や血族以外の次世代はどれほどいようか。

 

産みは悪であり罪であるから、だからこそ界隈では安易に養子案が出るが、少なくとも養子という境遇が決して現行でも多数ではないのに、適切に引き継がせ、上手くいく保証があるはずもない。

これこそ界隈が最も嫌いがちな親や出生の無責任と全く同じ構図であり、ひいては人の多様な考え方の否定でもある。

もっといえば、実の親子でさえこじれる例は枚挙に暇がないが、尚のこと界隈がどのように正しく教育できるのか。

仮定に仮定を重ねた上で成り立つファンタジーに乗るなど、ただのギャンブルに等しい。その程度の浅知恵で大衆思想の多数など取れようか。

生きづらさを抱えながらそんなことを考える余裕のある、いわば世俗離れした貴族やエリートの言葉遊びである。

大衆はそんな「考えても仕方ないこと」(まず達成しえないこと)などいい意味で頭の片隅に忘却しつつ、ただ日々動き考え、時にもがき、ある時は生んで、やがて倒れていくのである。(それを界隈は無自覚な罪や悪と断ずる)


むしろ、統一的な思想で染め上げてこそ初めて達成しうるなど、つくづく左派的な発想に近しい。実際にこの主義の信奉者は、左派政党支持の党派性がかなり見え隠れしている。


この傾向によって、是々非々の巷の言論のように、時にいい意味で日和る、などということができない。それは思想的な「身内」から叩かれるから。

しかし皮肉なことにこの現象は、多くの論者にとって自らが最も嫌う「出生が是」の同調圧力と同じく、結果として特有のムラ社会を形作っている。

是々非々が足りないから反出生になるのか、なったから是々非々を避けるのか、原因と結果はそれぞれどちらなのか、因果は不明であるが。

 

これは、自らの思想が唯一の真理で最適解だと考えているからのジレンマ。

社会に対し多様的(反出生を含めた)な価値観を認めさせ、ひいては反出生を受け入れよというわりに、おそらく逆にその日和を認めようとはしにくい構造。

(とはいえおそらく大衆の多くは界隈を既にある意味で認め=放置しているであろう。生む生まないに関してなどは、完全に個人の自由だからである。しかし界隈は、世間のいう出生は是、あるいは死を好意的に受け入れない、という悪の放置があるために満足しない。)

ほぼ自浄作用は期待できようはずもなく、先鋭化を免れることは極めて難しい。

※ただし以前、安易に思想をラディカルに解釈し主張しだした一部を、理性的かつ現実的な(というより主義の全肯定には慎重な穏健派の)同一主義のかたが諫めているのを目撃したことも付言しておく。

 

例えるならそれは、ヴィーガンが肉食を推奨するほどに、フェミニズムが男性優遇を肯定するほどに、矛盾した姿勢として仲間内に糾弾されるから。

これらは本来、「時と場合と人による」というかなり水物な代物なはずが、思想を全うすることそのものが何よりの目的と化してしまっている。

だがそういったネット上を中心とした匿名集団から個人に対する「叩き」によって、果たして界隈が望む社会の実現可能性が高まるのか、は言わずもがな。

 

そもそも、「何でも論破できるように構築されたモノ」に価値があるかと言えば疑問。

例えるなら、グーチョキパーいずれが、じゃんけんのルールにのっとって、その瞬間勝つためにor負けないためにどれが必要な最善手であるかを論じているときに、

後出しを推奨したり、「新しい最強の手を考えました!それはピストル!」といっている幼児のようなもの。

 

確かにこの姿勢であれば負けないであろうし、論破できるであろうが、それは前提であるルール破りと同義。

もちろんこれがアンチテーゼの役割でもあり、ここからまた別の突破口を開けることもあるが、そもそも全ての不幸は生きているからである、生まれるからである、生むからである、が最終的帰結では否応でも忌避感が出る。

冷酷に表現すれば、救わなくてもよい、なぜなら滅びればよいのだから、という風潮が根底に広がっている。

 

※勝つための理論や論法という観点においては、いわゆるツイフェミが恒例だが、あちらは様々に論理を後付けしていくことや新概念や新単語の発明によって、整合性に欠けたり、自己矛盾に陥りがちな傾向がある。

対してこちらは極めてシンプルである。なぜなら、滅びればよいからである。これは

確かに分かりやすい。が、究極的にそれだけの論法である。

 

それは多数の胸に響くのか。フェミの声が届きやすく、あるいは五月蠅くなったのは、面倒や揉め事を回避しようと企業が受け入れる姿勢になり始めたためであるが、一方で少なからず誰かを救うことにもなる面がある。

対してこちらは、確かに現状の生きづらさを改善させ得るが、その救いとはある意味で宗教的な救いといっても過言ではなく、決して制度的なそれではない。

結局この思想にだけ頼る必要もないことだ。むしろこの主義における問題解決の手法など極論、人類が歴史上散々繰り返してきたであろう自死と表裏一体で、その動機がセカイへの絶望など目新しさもない。

 

少なくとも世界をほぼ二分する男女問題を扱うフェミとは全く違い、生むことそのものの否定は、現在に限らず先祖代々や子々孫々の否定である。

時に過激なフェミでさえ、子を持つこと自体を全否定するのはごく少数派であるが、こちらはそうはいかない。

地球の約半分を構成しうる女性や女性性などのフェミが扱う問題さえ根深く、論争が激しいのに、たかが「論破できない=真理」という構図をもってして、本気でこれを万人が肯定するとでもいえようか。

 

「原罪」を押し付けられた男性は、万に一つはフェミによって抑えつけることもできよう。なぜなら構造的に、やり方によっては女性(+一部の親フェミ男性)という過半数の規模感を達成しうるからである。

しかし反出生など、老若男女や過去や現在、将来という存在まで敵に回して、「真理だから」という誤魔化しで埒が明くわけもない。大衆を舐め過ぎである。

この大衆の「無理解」を界隈は感情的なエゴと罵るが、その見方はさすがに頭でっかちで視野が狭すぎであろう。

あくまで理論と実践は別ということがなぜ分からないのか。

理論上正しいから必ず効く!という「研究室での結果」が、そのまま現代に生きる全ての人間に適用できるなら、今頃万病の特効薬は山ほどできているであろう。

この点においては、まだ現状の打破という意味で、フェミの方がマシに見えてしまうレベルである。

しかし往々にして界隈では、両勢力が互いに重なり合い、さらに反ワクチン系を筆頭とした反科学および反知性的な極端な思想も巻き込みつつ、それらが親和的にミックスされているために、より闇を醸し出す主義をも展開している。

 

究極的に界隈にとっては、出生という思想的敵対者が増えることは邪魔なのであろう。それは「殖える」から。

ラディカルから、うっすら反出生まで共通して、時に他者の出生さえも根本的に是としていないように見え、人類は救わず滅ぶべきと言っているように聞こえる。

おそらく他者の出生の話題やそれへの祝福の声などは、もっとも虫唾が走る事柄なのだと思う。

ちなみにこれらは「である」という断定しているのではなく、「見える、聞こえる」というのが大きなポイント。

 

※とはいえ実際twitter上でその振る舞いを目撃したこともある。おそらくリプ欄などの生んでくれてありがとう論に反吐が出たのであろう。

もっとも、思うは自由。しかし水をささなければ良い。自らはそういった茶々を入れられることを嫌がるのに、他の界隈にはかなり直接的に水をさしに出向く。

 

それが例えニュースサイトへの言及であっても、そこに喜ぶ人は集まるはず。しかしあえて争いを生みに行く。住み分けの概念に実に乏しい。なぜなら真理だから広まるべきというスタンス。

 

ネット上に跋扈する中傷を好む者と何ら変わらず、自らこそセカイの中心であって最先端であって、公などという概念は持っていない仕草だ。

 

(例えば年始の挨拶「明けましておめでとう」は慣習である。喪中を筆頭に、別におめでたくもない状況の人も当然いるし、年明けなんぞおめでたく思わない人も当たり前にいる。

だが口にする際、果たして相手がどういう思いか、など熟慮することなくごく気軽に使う。この「おめでとう」という言葉は、なにもアンハッピーと思うアナタに向かっているものではなく、めでたいと感じているどこかの他者の気持ちを尊重して言っているに過ぎない。

出生へおめでとうと言いたくないなど、本来このレベルの話だ。単なる慣習を深く考えすぎ、面倒くさがり、社会への疑問を問う。自らの不幸感によって言う言わないにいらだち、セカイ全体へ問題提起をする前に、その自身の神経質さや繊細さが問題なだけである。)

 

そう見えてしまうのは果たしてなぜなのか。おそらく界隈はそれが自らや仲間内に原因があるかもしれない、とは微塵も考えていない。

なぜなら自らが真理で、社会が間違っているから、という論だからである。この姿勢が万人に理解されるかは難しいと言わざるをえない。

セカイを変えたいとか、多数派を分からせたいというわりに、あえて汚い言葉や極端な表現を好む。

万人受けするわけのないものを、万人に押し通す。なぜなら正しさや自分の苦しみが絶対だから。その姿勢や態度や言葉遣いを重視しない。

確かに、論の正しさの方がより大切であるし、姿勢などは枝葉末節であって、重箱の隅をつつくのは敵というのも理解はできる。

が、少なくとも価値観と言うものが脳みそごとに統一されていない以上、逆に過激表現を好まない人もいるのだから、説得や周知フェーズにおいてはまずそちらに合わせればよい。

 

なぜなら、気にしない人はどのような言い方でも気にしないはず。おそらく乱暴な表現の方が素直で正直に映る、ゆえに理解が進む、というのは少数派なのは想像に難くない。というかむしろその層はすでに獲得済みであろう。

であれば、そういったあえて敵を作ろうとしない姿勢にするだけで、見える景色は多少は変わるかもしれないし、より広範囲の援護射撃も期待できるはずがそれをしない。

なぜならこれに傾倒するのは結局そういったきめ細やかな配慮を苦手としているか、そもそもそれに疲れた人々だから。

そして最終的に言いだすのは、望まずにそのような気遣いを強いられる世界に勝手に産み落とされた自分が絶対的被害者と言う立場。

 

この思想を受け入れたことで、むしろ楽になった、毎日が満たされたと表現する向きもあるが、真に毎日が充実していれば少なくとも他者を嘲笑したり卑下する余裕はなかろう。というかそんなメリットだけに絞れば、遥か昔にあらゆる新興宗教でも既に達成できていることである。

結局界隈が手に入れたのは、正義や真理と言うよりむしろ、それをはばからずに外に表出させる態度、そして遠慮せずそうすることの自由、なのである。自分たちは無自覚な、セカイや大人や、そして親とは違うというある種の階級闘争や選民思想である。

 

なぜそこまで界隈の外の出来事や、ヒトの表現に敏感で過敏なのか。

もちろん、ある種の繊細さを持ったゆえの思想傾倒であり、一種の防御としての攻撃性でもあろう。

少なくとも主義の中を見るに、少しでも理論化を図ろうとしたり言語化を試みようというのは、昨今のお気持ち勢よりマシかもしれないが、

そこで出される言語はやはり真理という名のいわば反出生経典だけに依拠しており、オリジナルの解釈や実践手法を見いだす者は稀に思う。 

 

実に極端な、脊髄反射で文を理解した気になるような、そういった層だけを得ることで何が達成できようか。もっとも、だからこそラディカルとここで表現しているわけだが。

小さなコミュニティ達成で満足し、それを望んでいるならこのままでよい。しかし心の中から思いをどんな形であれ表現して外に出すとき、やはり論破姿勢や嘲笑姿勢をとらないのは大事であろう、ということへの理解は乏しい。

 

あえていえば、圧倒的多数派であればそれは許されることもある。実に不公平で横暴だがそれが現実。

だから過半数もとれないような脆弱な状況で、そのスタイルを踏襲するのはまだまだ早い。過激で極端な政治勢力はどうなったか、どうなっているか、歴史を見てみよ、ということである。

(あるいは政治家の取るに足らない失言や振る舞いを、どれだけ大衆が揶揄し叩き、引き吊り下ろしてきただろうか?

ならば「善良な民衆の声」であればどんな言い方でも批判されない、などというわけがなかろう。集団や声の大きさに伴って、よりセンシティブにならなければならない。)

どうもこの世への呪詛を振り撒き、自らの思想に好意的なセカイへと変革を願うわりに、雑であると言わざるをえないし、他力的なのは言うまでもない。

左派に限らず、多くのフェミ勢や宗教などの変遷を見れば自明な通り、内ゲバ必須の未来。あえて美化していえば討論だが、所詮内部闘争である。

歴史は繰り返し、環境を勝手に居心地よく整備してくれる便利なパパママが現れないままに、永遠に駄々をこね続けていく。

 

界隈が大衆の馬鹿さを指摘すると同時に、大衆からは極端で過激すぎて阿保らしい、と思われるから受け入れられない。

そういった態度をトーンポリシングと批判することは可能だが、少なくとも出生を是としていない以上、界隈が新たに生み出す人員はかなり限られ、また幾人かの洗脳が完了する前に、自らの健康寿命は少しずつ経過していく。

ならば界隈を受け入れようとしない大衆を批判する前に、自らこそが先に大衆に半歩でも近づいた上で論を展開すべきだろうに、それをしない。

多くは男性を敵とするフェミでさえ、その点を攻められることもあろうに、老若男女混合の大衆全体を相手に見通しが甘すぎる。

周囲の他者の、あるいはTV越しの誰かの態度や言い方に、今まで一切反発を覚えたことがない者だけが、胸を張って「論の中身だけを見よ」と言えるものだろう。

だから所詮、既存構造や価値観に対する批判のために生まれた批判でしかなく、ゆえに文字通りアンチテーゼ以上の価値や計画が出来上がるはずもないために、実現性や実践性もいつまでも遠い。

 

いわゆる真理などいう教義、宗教感、そしてそれを絶対とし他者攻撃を躊躇しない893感をせめてまず無くせばよいのである。

特段思想や主義そのものと不可分ではないであろうに、なぜそれをするのか。過激で極端に過ぎれば過ぎるほど、一部を巻き込むだけの局地的かつ一時的なムーブメントでくすぶり続けるだろう。

大衆をかき乱し、滅びの後の復興に期待しているならまだギリギリわかるが、(ただし当然それが期待通りとは限らず、復興前に自らが先頭で滅ぶ可能性さえ許容するなら)それすら許さない全消滅が、界隈の(消極的同意も含めた)最終勝利条件という邪悪さ。

 

この思想には、当然ながら数式や分析や研究さえろくにない。(というか本格的にその道を学問として修めようとしている者はごくごく少数に過ぎない。大衆のエゴや私情を挟まずロジカルに評価されうる環境であるにもかかわらず)

なのにしばしば界隈では、「勉強中」などという言い回しもある。一体これをどこでどうやって学ぶというのか。せいぜい単なる思考実験の域であって、少なくともアカデミックに侵食しているフェミにすら劣る。

 

最も温和に取り得る選択肢の、セカイやヒトの「ゆるやかな滅び」に対しての実現可能性の高いロードマップすらない、ただ論破不可能な真理、などと標榜するひとつの言論に対して、否、言うなれば誰かのお気持ちに誰かがいいねして押し広めようとしている程度のモノに、傾倒するのがあまりにも稚拙。

※滅びに向かって、突然全消滅は出来ないのだから(界隈は本音ではそうしたいのだろうが)、例えば「キミらの生きてる社会はいずれ消滅させるのが善だし、キミらがいま生きていること生むこと自体は本来悪なんだけど、まぁ滅びを肯定して協力してくれよ」なんていうレベルの論は、相当オブラートにがんじがらめに包み込まなければ大衆に受け入れられるはずもないのは自明。

極論どこぞのブロガーの思いつきに人生委ねてるくらいに馬鹿げている。では私がどんなに正しいことを言っていたとして、それで私の考えに従って自らの人生全ての意思決定を左右させるか?否、普通ありえない。そのくらい低次元。

もちろん界隈の信者にとって、私と「教祖」の言葉は雲泥の差である。しかしこの教義の教祖は私と同じく、貴方の人生に責任を取ることは絶対にしないであろう。

 

本来、自分が望むセカイと、誰かが望むセカイは違うはずなのだ。

そんな他者からの受け入れがたい価値観の強制を嫌ってゆえの思想だろうに、逆に自らは他者に強制しなければ反出生の理想郷は実現できないはずである。

 

どうも観察するに、フェミ系や反○○系のリベラル活動家との親和性が強いことの一因として、他者と自己の区別が曖昧であることが多いように見える。

全体の、あるいは他者、ひいては自らの不幸や被害の感情を、あたかも伝播し共有しているのだ。

乱暴に言ってしまえば、一方的な正義思想を内在していて、いまもどこかに確かに存在する(自らにとって不利な)セカイの根源的恐怖と、それへの悲観なのである。

あるいは、死や病、老いといった誰もが避けようもない将来の自らに確定的な、本能的な恐れだ。

 

つまりセカイに確かに存在うるリスクを究極的にゼロにしたいのである。しかしおそらく今この瞬間にそれを達成するのは不可能に近い。(もちろん絶対に不可能とも言い切れない)

だからこその反出生なのである。ごく普通のヒトであれば、なぜいきなりそこに一足飛びなのか大きな疑問を覚えるところだが、これは左派思想(特に環境左派)にはよくある傾向で、界隈は言い換えればいわゆるゼロリスク主義なのである。

しかしこれもまたごく普通にリスクを許容しバランスをとって過ごす人々にとって実に滑稽な話であり、そもそもゼロリスク思想は「可能性はゼロじゃない論」との相似性が強く、意趣返しされることがある。

 

この不幸の絶対的存在性という論点に限って言えば、界隈のロジックをごくごく単純化すれば、現状ゼロリスクではない=将来もゼロリスクにならないであろう=ゆえに滅ぶしかない、なのである。しかし当然に「ゼロリスクになる可能性もゼロではない」。

こう返されたときに、界隈は別の論点に移りつつ、真理という名の教義を説き続けていく。次に界隈がこれと共によく挙げがちな点が、子の生まれたくない選択肢を無視している、という点である。(というかあまりにもここを強調する論者が多いため、社会全体の問題というより、本人の育った環境を強く疑う。)

しかしながら、不幸にも意思確認なく既に生まれてしまっている以上、自由にタヒなせろ、という安楽死推奨に行きつく。

だが、これもゼロリスクを掲げる界隈にとって相性の悪い問題がある。どうしてタヒねば(タヒのうとすれば)リスクが無いと言えるのか、である。

例えば、歪んだカルマ思想ではより苦しんだほうがよいのだから、人生の終わりを安らかに迎えようと思って訪れた安楽死施設で、安楽とは名ばかりの永劫に思える地獄が展開されるかもしれない。

しかし、タヒにのぞむ貴方にはそれを訴える能力は制限されているであろうし、そしてその出来事は簡単に闇に葬られかねない。これが起こらない可能性はゼロと呼べるだろうか。(こういった言は多くに人にとって通常、心配症で馬鹿らしい、となるが構造的にほぼ同じなことにリスクを感じるのが界隈でもある)

そしてそんな永遠とも思える苦しみからようやく事切れた後、果たして真に「無」になると誰が証明が出来るのだろうか。ゼロリスクを言い出す界隈の案すらリスクはある。どこにもゼロリスクなどあるはずもないのだ。

 

セカイにままよくある、個々が信じる何らかの「正しさ」を実現しようと各々が行動に向かい、それらがぶつかり合うことが最もベストな結果を生む、ということが理解できないようである。

界隈の傾倒の順序として、まず真理であるという前提がゆえにそれを疑う余地なく信奉し、他者の全てを愚の骨頂と断じて行動する。セカイが一色に染められなければならない、そんな宗教性が垣間見える。

 

それにしても、生むことや生きていることがもし界隈の言うように悪なのであれば、そこから間違いなく生まれた反出生という思想そのもの、そしてそれを信奉する界隈すらも、どうして悪ではないと言えるのだろうか。

ならばやはり皆滅びれば実害がない、とでも言われそうであるが、そもそもはたして真に実害が無いかすらも証明不可能なはずである。

 

これは育った家庭環境なのか、人生におけるトラウマなのか、「このセカイ」というものを見たからなのか、はたまた持って生まれたものなのか、信じていた何かあるいは誰かに裏切られたからなのか、所以は分からない。

いずれにしろどうやら確からしいのは、思想信奉前から(and/or 現在進行形で)「幸せである」者が突然この主義に傾倒するのは極めて稀なように映る。つまり界隈のきっかけの多くは、少なくとも何らかの不幸感なわけである。

 

仮にそうだとするなら、何もこのような思想にいきなり走る必要もなく、それは精神領域への医学的アプローチ、あるいは行政のサポートや、個々のマイノリティに根差し細分化された様々な互助によって、特有の生きづらさは大いに改善する余地がある。

※実際にtwitter上など、界隈やフェミ、あるいは親左派系アカウントなどの多くは、いわゆるメンヘラ系の病名や精神科の診断名などをbioを書き連ねているケースは非常に多い。これは果たして偶然なのであろうか。

もしこの主義に傾倒するのが、「それ」が原因なのであれば、本来セカイを変える真理の思想などというものでどうこうなる範疇ではないはずである。

 

だがそれらは界隈にとって至極面倒なのである。だから単純化してイデオロギーひとつでセカイを染め上げることで「根本解決」をなせそうな反出生を選ぶ。

またそもそも、勝手にこの世に生み落とされた自分とって、その無駄な配慮や努力をする必要性や責任など毛頭ない、という思想だからである。

 

(この時、界隈がよく言うセリフが「生んでくれと頼んだ覚えはない」である。多くの人々にとってせいぜいドラマやマンガの中で見聞きするか、反抗期で終わる程度のこのセリフを、まるで切り札かのように真理として発する。

少なくとも現状の人間社会において、その態度は禁句に等しい。そんなものは本質でもなんでもなく、ただ単にヒトとヒトをこじれさせる言葉に過ぎない。

そんな「こじれさせることが得意な」界隈が社会変革を目指していることを、身の程知らずと言わずして一体どう表現できようか。

おそらく界隈が「生むのはむしろ当たり前」とでも言われたら、きっと一般人が感じる以上に忌避感を覚えるどころか、ひどく憤るであろう。つまり界隈への禁忌は許さないのに、他者への禁句は平気で口ずさめるわけである。)

 

※界隈の多くは親子関係や家族関係の中での経験に端を発して、その歪みを発露させているであろうに、その界隈から「新たに生むよりも孤児を引き取り育てる方が」などという案が出るのが不思議で仕方ない。

どうしてその自らであれば適切に孤児を教育できると言えるのか、またどうして安易にそれに賛成できるのか。

子が歪む原理を体感的に分かっているからこそ、その歪みを回避できる、などという根拠はどこにもない一方で、それでも歪んでしまう反証はいくらでもある。

 

界隈の心情を大げさに言えば、地獄の業火に日常的に焼かれている(と考えている)ので、手をこまねいている余裕などこれっぽっちもないのだ。

これらを内心で思うのであれば、もちろん大いに結構であろう。正当性も少なからずある。

だが他方で、外界に、他者にそれをはばかることなく表明し、社会の共通課題であると一般化しようとするとき、

少なからず幼児的発想との類似性をいささか感じてしまうのは、決して私だけではないだろう。(この所感程度でも、おそらく界隈に「出生主義!」と蔑まれるであろうが)

 

しかし自らの辺りが地獄に見えて、業火に焼かれていても、他者にはそうではないかもしれない。

またそもそもセカイが地獄であっても、自らが業火に焼かれるかどうか、はまた別である。

そしてまた、地獄と感じるのも、業火と感じるのも、その閾値は人それぞれで共通化できないのである。(ゆえにこの思想で万人を染め上げにくいことに通じる)

 

※例えば、-----

(ここで、ミクロかつ私的なセカイへの不満を挙げると、葬式やら喪主やらの慣習には大反対していて、その一連の多忙に誤魔化されることなく、悲しむべく時に悲しむべきと思う。

この社会規範は私にとっては、取り戻しようのないある意味一生のトラウマであり、今後も続く不可避な不幸とも表現できよう。世間にはまず理解されないが、私にとっては確かにそう感じるのである。

とはいえ、そんなものは個人的な信念に基づいて行動するべきであって、例えそこに世間の半強制的な空気や風潮的なものがあったとしても、社会運動化してその選択の自由を勝ち取り、社会に認めさせようとは思わない。

 

それは行き過ぎであると考える。さらに言えば、そういったことを行うには自らはもちろん、多くのヒトにとっても所詮実力が足りないからである。(であるから多数を率いて声を挙げようという発想に至りがちだ)

加えて言えば、少なくとも多数が実行し、一定程度支持されている事柄に対し、疑問を呈するとか声を上げるだけでも、誰かを廃する結果となるなど、少なからず意図しない責任は生じうる。

また、最初から個人の自由として十分担保されている。葬式という儀式がセカイに存在することを妨げることはできなかったし、私が存在を許可していないその規範によって不利益を被ったと思うが、その存在自体は呪わない。他者やセカイからそれを取り上げてしまおうとは全く思わない。

 

この葬式不要論について、間違いなく私はマイノリティであろうが、あえて制度化する必要もなく、もしどこかに賛同者がいたとしても、誰かの行動や選択が、また誰かの選択肢となるという自然な流れでこそ、長期的な移行が潤滑に達成できるであろうし、もしそうならなければ自らの考えが少なくともその時流において異端であったに過ぎない。

 

上記の葬式論に限らず、個々の抱える些細な不満や不幸というものを希釈したり濾過して抽象化していくと、意外に各々の反出生に対する向き合い方に類似するものが見えてくるように思う。

ただし、抽象化→具体化→抽象化...などの思考プロセスや、読み替え、置き換えといった例えバナシ作法が不得手であると、まったく別物だとしか思えないであろう。

界隈はその傾向が顕著で、曲解や誤解を通じて、自らの唯一無二とする絶対的かつ壮絶な不幸感を語る。ピンキリであろうがそもそも誰であれ、当人の不幸は唯一無二なモノだし、ヒトの感じ方次第で何事も地獄であると思うが。)

-----

 

※例えば、その2-----

(自転車で交差点に立つとき、信号無視はどんな理由があっても基本のルール上はダメだ。

だが、その信号付近の信号のない別の横断歩道、あるいは道の途中から渡る分には、むしろそこに横断歩道さえなくても、理論上(別の理由で違反にはなりえるが)信号にはとらわれない。

もし信号無視を警察が見ていれば、どんなに他に車がいなく危険がなく見られようと容赦なく止められるが、そこに信号さえなければ問題ないと黙認されるだろう。

 

やや非合理性や不条理さや矛盾を感じるし、端的に言って不便であることも多いが、それが現行セカイのルールというもの。

※とはいえ赤信号程度なら(とあえて表現すれば)一回も全く無視せずに人生を終えられる、または終えられた、と誓って断言できるものはごくごく少数の聖人であろう。

 

いつの間にか根付いたマナーや慣習が、人々の倫理感や刑罰の代行などを伴って、法律といった形に変わってきた。

もちろん言うまでもなくこれは、サバンナのど真ん中やジャングルの森の中、アンデスの山の上などでただ一人たたずむ限りにおいて、縛られることはまず少ないだろう。

そういったごく一部の場所や集団でしか通用しない例外を用いて、全体を変えてしまおうと強く思う自由はある。しかしそれを受け入れてもらえるかは、あくまで自分以外の多くの他者の選択による。

 

一定程度の賛同者がいれば、そういった現状への不満や不公平を、よりよい形に変えることもできるだろう。
しかし往々にして、一方の要求によってを何かを変更すると、他方が上手くいかなくなることがある。

そもそも変えるとして、どのような根拠や数値などを用いて明文化するか、またどこまでヒトに裁量を認め、適切に運用するかなどなど問題は多い。

そしてその作業は多くの場合、声を上げた自らではなく、他者に託すことになる。

 

本邦における金なんて要らない論も同様に考えられて、では撤廃するとしてそれはいつからどのように、そして対象はどうなるのか。

そしてそれを移行するのにどのように軋轢や不平なくスムーズに手続きするか。

既に存在してしまって、多くの人が認知し関わっている事柄を、突然真逆に変えるというのは大いなるリスクである。

厳格さと寛容さを併せ持って、絶妙なバランスを維持しようとし続けているのが現代社会のプラクティスだ。


たかが交通ルールや、地球からすればちっぽけな島国の制度ひとつとってもこれである。

端的にいって面倒で煩雑であったり、既得権が絡むるために放置されていることもしばしばあるが、変えることそのものによるデメリットも決して無視できない。

よって、既存で回っている仕組みの一側面だけを見て、否応なしに何かを変えるというのは、実はさらなる混乱を招いたり、無意味なコスト増や犠牲を伴うことがある。


また仮に自分が良かれと信じた結果、変革を達成し何らか利益を享受できても、それが真に望んだ利益となっているかはまた別である。

否、むしろ自分が思ってもみない被害を被り苦境に立たされることさえもある。

そのため、おそらくこういった議論になるとき、セカイ構造を単純化しがちで過激な論調な人なほど、全ての破壊を望む。

まるでこれから新たに社会を自在に構築せんとする神のごとく。

 

面倒なものは全部要らない、悪いものは悪い、危険なものは危険なんだ、対案や代案など要らない、などとヒステリックに叫ぶ。

その姿勢こそが、まさに危険そのものであり、どんなに正論であっても最も大衆に忌避される態度なのである。

 

おそらくこれは被害者性や他責性を抱く界隈にはまず理解されないが、一つ付言するとすれば、そうやってダメなものはダメだというお気持ち等によって、

手続きや手順などを省き、さらに声高な一定程度の集団戦法で攻めるということに味をしめてしまうと、「まったく同じやり方」で自らが意趣返しされるリスクを高めることに熟慮するべきである。

-----

 

例えば、その3-----

(苦痛や不幸の基準点。生きるということやそれに必要かつ付随する諸活動の観点において、無理はしない方が良いことと、自分の限界を知る、ということは両立することが出来る。

もちろん他者と必ずしも比べる必要性も強制性も持たないが、少なくとも自らにとっての閾値がどの程度なものかを知っておくことは決して無駄ではないと考える。


そもそも自らの「無理」とは何か。分かりやすく挙げれば、物理的な痛み。
現実的に考えれば現行からすぐさま、界隈の望む体制に移行することができないのはほぼ間違いないのだから、まずは自分がそういった痛みに強い者なのか弱い者なのか、を再考しておくことで、思想や主義に頼らずに苦痛の抜け道を知ることすらできるかもしれない。

 

なぜ多数が平気なものに(世間は反出生に傾くほど思い至っていないのに)自分は苦痛や不幸を覚えるのか、という分析。おそらくそれは、心身の防御力や状態異常に対する耐性が低いがために、不幸感を感じやすいという特性であろう。

 

無論それ自体は決して良い悪いではなく、あくまでも誰しも当然に存在するただの個人差に過ぎない。であれば、その閾値をもう少し調整することが出来たなら、不幸を大したことが無いものとして、あるいは別の感覚として変換できるのではないか。

 

※とはいえそもそも界隈は、苦痛そのものや不幸の存在自体を許していない。それがセカイのどこかに現にあり永劫撲滅不可能である、そのことこそが問題だと断ずる。

しかしそうなると、あえて極論を言えばハードなSMに興じてサディスティックな喜びを感じる人や、それを受け止めるマゾヒズムな感情は果たしてどう判断するのか。

はたから見れば、明らかに狂気であるし苦痛であるし、もし自らがその状況に置かれたらこの世の絶望や悪さえ感じる。が、当人たちはむしろ真逆の感覚であろう。

(このように主観的な幸・不幸の問題に対し、客観的に不幸に見える=存在すべきでない悪、などという外部性を持ち込みがちなのであるが、そうなると他者にとって幸せに見えればそれで良いともなり、ひいては界隈の「生きづらさ」さえ一蹴されかねないので簡単に無視できない問題である)

究極的に、それを好む人々がセカイのどこかにいる限り、誰かが嗜好を曲解し、自らや周囲にいつ意図せず被害が降りかからないとも限らない。

しかしそれは本当にリスクと評価できるのだろうか。そんなヒトなど生まれなければ良いとまでも言わなくとも、ごくごく一部の異常者による暴力が生まれかねないセカイなど滅びた方が幸福と言えるのだろうか。

それを単にイレギュラーな少数者は例外だ、などと断じるほど少なくとも私は単純に片づけて良い事柄とは思えない。

 

痛みを知る、ということ。これはおそらく今生きるすべての人々が、多かれ少なかれ無意識に経験してきた。

成長の過程で、幼児の頃はただ泣いていたものが、段々とおなかが痛い等と言うようになり、そのうち判別が効いてくると胃が痛いと表現することが出来るようになる。

 

もちろん痛みや苦しみそのものは回避できていないし、種類が分かったからなんだという話と思うだろうが、少なくとも今にも死にそうな生命危機的かつ全身的な苦痛だったものが、実は世間ではよくある事であり、そしてそれに対処法も存在し十二分に予防もでき、泣き喚くほどではないことを覚える。

 

※いわゆる「あの時の痛みに比べれば」のような発想もできるわけだが、これは一定程度有効であるのをヒトは経験的に知っているし、むしろ日常的なことでもある。

ただし界隈は、この一切の辛苦を追うことのそもそものおかしさ、を述べる。これはその苦痛に耐えることのリターン、ドライなメリットデメリット視点とでも言えようか。

 

これは無駄なことだろうか。

繰り返すように、すぐさま界隈の思想によって万人から苦痛や不幸が取り除けないことが確定的なのだから、いつ達成できるか分からない主義に傾倒するよりも、上記のような自らの状態を深く「知る」、そして別の表現を「知る」を通じて、刺激に慣れたり変換したり、以降の耐性や予防法を身に付けることは決して無意味とは思えない。

 

逆に幸福や充実の代名詞ともいえる、日常的な「食べる」も同様である。

個々の満腹感には大きな差があり、小食には一定の限界値があるが、早食いや大食いはまさしく青天井と言っていい。

多くのヒトはフードファイターにはなれないし、まず間違いなく健康を害するが、自分がおなかいっぱい、と感じたとき果たしてそれは本当にいっぱいなのだろうか。

飽食の時代の食物に恵まれたこの国において、どれほどの人間が、自分の満腹の限界を知っているのか、と言えば甚だ疑問である。

「いっぱい」とは言葉通り解釈すれば、もうコメ一粒も口に入れられないようなものである。しかし満腹でも、コメ一粒くらいは入る。

つまり多くヒトは、(美味しく体調良く食べるにはという観点を除けば)いっぱいになっていないのにいっぱいで苦しいと表現し、食べることをやめる。

これでは自分の現状の限界はどこなのか、知る由もない。不幸や幸福や、苦痛や快楽などを頭の片隅で考えながらも、界隈を含め多くのヒトは、たかが食べること程度の自らの限界も何も知らないものなのである。

 

では、まずどこが自らの快・不快の閾値なのか知っておくこと、そして実は今よりもっと先は無いのかを見つけ出し、許容点の調節を図ることは、地獄をぬるま湯に変え得るし、苦痛をそよ風と表現しうる。

これは精神論や根性論、楽観で切り抜けろ、といった言とは全くもって別で、このセカイというものや自分という存在の新解釈をし、界隈の信奉する思想とは違った視点で、新たに有用な道しるべを見出すことに通ずるということだ。

 

ただおそらく界隈は、「望んで生まれてもいないのにそんなことをしなければならないこと」がヒトの不幸でありセカイの悪と言うだろうが、

再三繰り返すように「そんなことを言ってもすでにセカイはあって貴方は生まれている」のであって、界隈が真理などというモノによって誰か一人を洗脳しきることを遥かに上回るスピードでヒトは今も生まれている。

どちらがより建設的で現実的な解なのか。もちろん二者択一にするべきではなかろうし、二兎を追ってもよいが、少なくとも優先順位はおのずと見えてくるはずだ。

ただでさえ傷つきやすいとも形容できる繊細な感性はそのままに、他方でセカイや他者にはヒステリックな言動を続けるのは、単にメンヘラしぐさと同様に大衆にハレモノ扱いされてしまうだけである。)

-----

 

界隈的な不幸というものを、まず定量的に定義づけてから論を展開しようとすると、どうしても自らと他者との実感の違いに阻まれることであろう。すると社会の欺瞞を一層強く感じる。

おそらく昨今の「多様性を重んじるのが是」とされた世の中では、一部のネット上でクラスタを形成することはできても、セカイの変革まで到達するにはさらに難儀する。

それぞれ人はあまりにも違い過ぎるからである。

※多様性とは、イコール個人主義や自由主義の台頭の裏返しである。だからこそ界隈のような、それこそ奇抜で多彩な発想が生まれることに繋がるし、ひいてはその過激で極端な内心を発信する自由さえ担保されうるが、同時に他者がそれを受け入れず忌避する自由も当然ある。

 

ごくごく単純に、界隈よりもっと客観的には悲惨で辛苦を負いながらも、ごく普通に生活をしている者は広いセカイにごまんといるであろう。他方で、繰り返すように人それぞれに痛みの閾値にも当然差がある。

そのため、他人の苦労に比べれば自らの苦痛などごく些細かもしれない、などといったことを言うつもりは毛頭ないが、界隈の過去の体験や現在の状況、未来の予測がどうあれ、少なくともそういったごく普通にいまも生きている当事者からすれば界隈の主義思想など究極的には、幼稚で甘い、の一言しかでないのである。

これをいかに界隈が罵ろうとも、そういったある意味のサバイバーや、強者さえ上手く取り込まなければ、界隈が望む理想社会は達成し得ない。

 

界隈の悲観はおそらく、外界が予想しえない様々な思惑で動いていることへの恐怖でもある。

有象無象の事柄について、一つの原因に絞り込むことが難しく、そしてその場その場で最適な立ち回りを選ぶのはひどく面倒だ。であるからこそ、ただ一つの処方箋としてこの主義を求める。

だから界隈は意識的か無意識的か、そういった煩雑な手順を簡略化せんがために、まず絶対的地獄があり、灼熱の業火があり、未来永劫回避不可能で、いまも自らは焼かれている、という前提に積極的に立つようだ。

それは殖やせない思想的立場な以上、時間が無く、限られているからでもある。

 

他者の出生自体をこれほどまで敵視するのはなぜか。端的にまとめてしまえば、冒頭でも言及した通り、「性嫌悪」あるいは「生嫌悪」ゆえであろう。

その一端を例えて言うなれば、冷めた目線でしたり顔で、出生を「美しく語っても、所詮中だしの結果だろ!ケラケラ」と揶揄する中学生のようなもの。※実際に本当にそうやって他者を嘲笑・冷笑している一部も見たことがある。

 

(※界隈は生を嫌悪し、救いとしてタヒを積極的ないし消極的に支持しているが、それを自らが即時行わないのは通常、タヒという恐怖や苦痛を回避せんがためである。いわゆる「勝手に産み落とされたのに!論」。

ただし一般的に自タヒとは、現世に未練や希望が無くす等で上記のタヒの過程で味わうであろう辛苦を超越して選択され得る。

とすれば、つまり界隈はあえて生の状態で甘んじていることによって「タヒの過程をいま経験しなくて良い」という利点を半ば肯定的に享受しているとは言えないか。

そんな界隈が早急な全ての滅びを希求することに些かの疑問を感じつつ、おそらく界隈にとって心地良い価値観や社会が構築されれば、生き残る気満々になりそうな人々が界隈内に垣間見えることに矛盾を覚える。

即ち界隈が真に望むのは、タヒや滅びそのものではなく単に現状の自らの生きづらさなるものを打破し得るフリーライドシステムであろう)

 

どうも他者の言いにくいことをサラッと平気で口にするのが勇気や知性のようにとられがちな昨今だが、上記の中田氏の結果に過ぎない等をはじめとした界隈の乱暴な言は、少なくともご承知の通りこの世の真理でもなんでもなく、多くの人にとってそんなものばかりを口にしても仕方ないから、あえて言わないのである。

また、軽々しく言えるほどにヒトやセカイや物事は決して単純ではなく、また過ぎゆく日々の中でそんなことを語る余裕もなく、そしてひいてはそこから生じる問題解決に自身が甚だ力不足か門外漢であることを自覚しうる。

セカイに多々問題や不条理や不合理があることは前提で、偽善や悪があること前提で、そんなことは分かっていても口にするほど野暮ではなく、そんなことを言うだけでは不毛だから、現実的な及第点や妥協点といったその場その場の解を探すわけだ。

 

対して界隈の一部は、人々の日々の営みや、行いそのものを無意味としてあまりにも断じ過ぎる。なぜならこの主義が「皆に徹底されれば」すべての問題が氷解するからである。

※もちろんそれこそが最も難しいことは界隈の理性的な一部は自覚しているはずである。

そして大抵の場合、特に若年層や、あるいは既存社会から一歩逸脱して俯瞰した者は、時として世の中に次々と歪みを発見する。

(場合によってはそれの解決に向けた理念より先に、恣意的にビジネス化を目的とする狡猾さもヒトは備えている。)

 

同時に、しばしば教育現場で習得させられる無駄とも思える知識群に対する疑念を抱く。ただし往々にしてそれは、その実用性が見えていないだけである。

すでに使えるようになって、もはや無意識に当たり前になった技術や知識の基礎を学ぶことを無意味とし、新しい何か=分かりやすい正解を求めるのである。

飛行機の原理や構造を完全に理解し、海外旅行に行く者が果たしてどれほどいようか。スマホやPCの技術の根幹を意識して、どれほどの人がネットを漂っているであろうか。

しかし少なくとも、最初の型を学ばずして、はなから型を破ることはできないのである。一部の例外的な天才や秀才を除いた多くの人にとっては特に。

 

とはいえそもそも、物事や生きる意味など、究極的にはあろうはずもないのもまた事実である。

あくまで偶然、いまこの瞬間存在する遺伝子の運び屋がヒトにすぎず、単に連綿と物理法則に従って営みが繰り返されているだけであって、それ以上に「この私」としての価値があろうはずもない。

だがそれは人にとって、頭で分かっていてもあまりにも酷だ。であるから昔に比べ昨今は特に、直系の遺伝子を後世に伝えることが難しくなってきた時代も相まって、何からの「記録や記憶」によって自らを残そうとするむきもある。

 

この、人が本能的に持つ「遺す」というどうしようもない欲求のガス抜きとして、どうも一部がこの思想信奉に流れているように見受けられる。

この社会における歯車を忌避する代わりに、この主義の実践者として思想の歯車になることを選ぶわけである。これはいわゆる環境に対する進化適応であろう。

だがヒトはいつか忘れるし、そもそも万人に忘れられないほどの至大な何かを成し遂げられる者は一握りだ。

 

しかし大衆の、そういったただ惰性に見え、無意味に見える人々の営みや試行錯誤の積み重ねが、時として実を結び少しずつ改修され発展し続けているのが社会である。

一方で界隈は、その成果を見ずして現状の不完全さを糾弾する。巷のリベラル系も安易にやりがちな言動だ。

確かにその点には一理あろう。人々の脳内が統一でもされない限り、大なり小なり問題は発生しうると予想されるからである。


ただし、その「正論」は伝え方や伝えるヒト次第で他者の捉え方が大きく変化する。そして一度忌避されると、それを再び同様のやり方で振り向かせるのは難しい。

内容で判断せよと、どんなに憤ってもヒトには感情があるがゆえになかなか難しいことである。

むしろ、社会がバカで思想を受け入れない!と嘆き苛立つそれ自体が、自らの感情の発露である。理性的な表現を出来ない者がどうやって他者の理性に期待できようか。

 

使えない理論は、いかに美しく完璧で無矛盾でも、それは文字通り、実践的でもなく実用に耐えない机上の空論なのである。(究極的に「無」を希求する思想なのだから、実用や「有」を意識しないのは当然といえば当然だが)

例えば世界5分前仮説も水槽内の脳も、多世界解釈も、仮にセカイが真にそうであったとしても、だから何か変わるのか?それで現状を変えうるのか?であって、使えなければ単なる頭の体操の一つか、あるいは哲学的な命題にしかなりえないのである。

 

とはいえもちろん、そういった奇抜な発想を出発点として、過去には覆せなかった長年の不都合な事象が、その際の時勢ないしテクノロジーの発展具合によってふと解消されることもある。

しかし多くの場合、世界中にこれだけの脳ミソがあれば、誰かはどこかで様々な問題点やそれに対する理想の解決策をすでに見出しているはずで、

一方で急進的な根本解決などできようはずもないので、あえて触れず別の視点で打開を模索しているわけだ。これがゆえに社会の瑕疵が放置されているように見えてしまう。

けれどそれを界隈は許さない。なぜなら基本的に他責性と被害者性を抱いているからである。現に今も界隈には生きづらい社会が目の前に広がっているわけだ。

本人にとってはどうしようもない絶望感、それらが相まって、その感情の処理としてしばしば他者や社会への「攻撃性」を生む。


かといってそもそも、出生に関しては単に口先で祝福しておいて、内心では蔑めば済むだけである。すでにそれは少なくとも先進国においては万人の自由として担保されている。

最もそれが憎悪と呪詛を伴って、鮮明に可視化されているのがネット上である。おそらく実生活でラディカルに活動する論者はさすがに少数であろう。

仮にその内心を口走ってしまう世渡りの不得手さがあれば、力のない者にとって、自らのリアルコミュニティにおける生きづらさを一層加速してしまうからである。

他方で、それを心の外に表現できないのは、界隈にとって悪の放置に他ならない。なぜなら「出生は是」とは、いまにも自らの安寧を乱さんとする刃だからである。

 

それでも、仕方なく今生きていることや、自らそのものの目的や意義や価値を、無意識的に反出生の全うに見出だしているのであろう。

だが主義自体はもしかすると論者自身を救うかもしれないが、当の論者は誰かを(あるいは信者を)直接は決して救わない。

ラディカルな実践者や信奉者は別として、うっかりうっすらと反出生に傾倒した誰かが何かに報われず後悔を語るとき、論者が言うのはおそらく「思いが足りないだけ」的なスピリチュアル界隈に似た慰めだけであろう。

いやむしろ論者は喜ぶかもしれない。ひとりひとりの滅びが最上の救いであって、それが理想世界への一助だからだ。

ある意味で、思想上のリーダー的なラディカル以外のうっすら信奉者は、理想社会実現に対する駒である。構造的にはやはり、界隈が忌避しがちな社会の歯車と何ら大差ないのである。


このとき先導者はせめて、目の前で人生を終える誰かに対し、よく全うしたと褒めるだろうか。

だがご承知の通り、タヒんだ後はもはや何ら安堵や満足感に気付けるはずもなく、理想社会の達成を見ることもできないのである。

いや、セカイが汚物に見え希望を抱かない以上、そもそも信奉者は現世の称賛といった幻想など望まないかもしれない。

それでも救われるのは紛れもなく旅立つ自身のみである。

であるからこそ、界隈が非常にグラデーションの富んだ、一人一派とも思える思想状況で、なぜ団結するのか大いに疑問なのだ。クラスタが大きくなるにつれて、必ず内ゲバが発生することを予言しておく。

 

界隈によれば、これは古くからある(しかも「賢者は気づいていた」)思想だと称するにもかかわらず、なぜそれが未だ全く達成の気配を見せないのかについて、真理なのに!大衆がバカ!と連呼する前に、冷静に分析する必要があるのではないか。

むしろ真理である、のみでついてくるヒトはほぼ界隈の多々なクラスタにすで満たされ尽くしたと踏むべきで、手法としては飽和したと思われる。

仮にこれを本気でセカイに拡大させていくべきと思うのであれば、万人の人心を掴めるような別の方法論が必要なのである。

(もし自分たち以外の社会がバカだと思うのであれば、なぜバカに合わせて説明しないのだ?ということ)

 

例えば界隈はやけに「上から目線」を嫌う。だが片や界隈は「神の目線」でこれからのセカイをどうするかに行きがちである。

もし神であれば、これから如何ようにも新たなセカイを構築できるが、セカイは「既に有る」し、自らは不幸にもとうの昔に現世に生まれ落ちている。だからその構造を無くすor変えるには必ずヒトの生き死にのコントロールを伴う。

 

そういった観点で具体的な施策をどう行うかや、どう運用させれば既存構造からのスライドがスムーズか、を考え広めようとしている論者は皆無に等しいのではないか。

極論、二言目には「滅べばよい。悪だから」であって、それ一辺倒の「論破姿勢」はあまりにも粗雑であろう。界隈は大衆に向けて「思考停止」と言いがちなのだが、それは果たして本当に大衆の方であろうか。

どうも勘違いしがちだが、啓蒙という名を借りて「まず思想を受け入れさせる・認めさせる」という最もハードルの高いことを先にやろうとしている。

 

セカイを変えることに憧れるのは自由だが、それを自らが達成できる力があれば今この思想の周知段階程度で燻っていないであろうし、あるいは「身内」にそのような才があればとっくにセカイは変わっていることだろう。

あまりにも、本当にあまりにも、ネット上でたまたま上手くいった社会運動的事例に目が霞んでか、戦略なく一足飛びにしすぎなのである。

 

既成概念や既存構造への抗議、異議申し立てという意味において、少なくとも近年におけるネット発信で政治や行政を動かしたり、法整備が行われたなどの成功事例は、基本的に誰かが「救われる」事柄である。

だが言うまでもないが、その救う過程で出生の是非すらはらむ「観念」領域にまで踏み込んで達成したことなど一つもない。

既存の手法よりも一層繊細に、緻密に、狡猾にやらなければ多数の理解など得られるはずも無かろう。

 

※例えばネット空間におけるポリコレ含めたヘイトや差別言論では、ある程度分かりやすく「被害者性」が見えるため、確かにマイノリティ側の語気が荒くなるのも心情的には理解できる。

しかしさすがに反出生界隈でその調子をコピーして流用するのは無茶というものだろう。

独特の思想を紐解いて初めて、界隈の抱く被害者性や一定の正当性がようやく垣間見えてくるレベルなので、地道かつ丁寧なプロセスなく過激で攻撃的な主張ではハレモノの異端暴論扱いになるのは自明だ。

 

一つの立場を一貫することだけにこだわると、そこはどうしても見えづらくなる。ただ確かに言えることは、本来、良くも悪くもヒトは変遷するはずだ。

もう半歩だけでも、セカイに合わせた方がより楽で現実的であるし、もしかするこの思想にのめりこまずとも、問題解決の手掛かりが掴めるかもしれない。

時にそれを矛盾だとかダブルスタンダートだと罵ることもあろう。しかしそれがヒトの柔軟性の良いところである。

 

だからこそ、この思想に厳格にラディカルレベルに傾倒すると、時間経過に伴って、合う者と合わない者、脱落していく者が必ず存在する。老いによる心身の変化、などおそらく界隈が最も回避したい点なはずだ。

一度信じたモノは絶対に変わらず、最後まで全うできる自信があるのだろうか。

であれば、初志貫徹、といった類いの言葉がどうして世の中で重宝されているのか、その意味をよく考えた方が良い。

少なくともヒトの言う「絶対」など、この思想の構造からすればまず信用ならない単語の代表格なはずである。

 

ヒトには、やった後悔、やらなかった後悔どちらも必ずある。何かを、人生を賭けて全うすることでそのまま上手くいくこともあるだろう。

けれど失った時間は決して、どう頑張っても元に戻らない。失ったと表現するか、費やしたと表現するかの違いだ。

そして、ラディカルな論者ほど他者へその責任は決して取らない。

社会に押し付けられる自己責任を嫌いがちな界隈が、思想全うのために自己責任が必須なのである。なぜなら滅べればよいのだから。それが救いなのだから。

 

ネット上で各個が望む場で、「身内」でまとまっている分にはまだ良い。それは誰かにとって、神の如き生きる指針であったり、ひとつの救いでもあろうことは大いに理解する。狭い場所においてはこの思想は結束の証となろう。

しかし現状も少なくない数がこの主義に、ラディカルに傾倒し「布教」していることから分かる通り、界隈には「好意的な仲間という駒」がどうしても不可欠なのである。

※この点は、元記事の最終項に貼った関連記事:【誰でも分かる】自分の思想・主義主張・価値観を社会や世間に認めさせる方法において、若干の数字を用いて書いている。社会変革にはまだまだ人数が「圧倒的に足りない」のである。

究極的に自らのみの救いを求めていても、やはり集落を作る本能を持ったヒトというわけだ。

 

けれど、集った結果において、そんなものを安直に社会運動化しようとしたり、真理だとか論破不可能だとか言う美名のもとに万人に認めさせようとしたり、

または誰かに安易に勧めようとすることが甚だ理解不能であって、この思想の最も顕著で明確な危険性の一つであると私は考える。

 

仮に少しでも「不幸を憎む良心」というものがあれば、他者の生き方をあまりにも極端に変貌させ得るこの主義を、そしてその結果、界隈の言葉を借りれば「他者がどうなるか補償出来ない」のにもかかわらず、

積極的かつ好意的に広めようとは、私にとってはあまりにも恐ろしすぎて、到底考えられないことである。

 

界隈にとって最も厄介であり、かついずれ懐柔しなければならない「出生を強く望むヒト」存在。その人々の過去から現在まで費やした努力や、ある意味で執念や執着とも呼べる欲望をもはねのけるほどの、優しさをあわせもった説得的な熱意を、強制や矯正とは違った論や態度を、果たして界隈は今後獲得できるだろうか。

少なくとも界隈の現状を観測する限り、その光景は微塵も想像できない。子が欲しいヒトが作る機会や能力や運に恵まれず、そうでないヒトが作らない。ただ、そんな不条理で不公平で、ある種の無い物ねだりという欲求が、ヒトの原動力になってきたのは言うまでもなく、おそらく今後もそうなるのは確かであろう。であれば、思想的な「勝者」となるのはいずれであろうか。

 

以上、蛇足終わり。