よつまお

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【真理?でも受け入れられにくい?】反出生主義の思想を点検してみようの回

(約20,000文字超) 最近ごくたまーにネット上で散見される「反出生主義」(アンチナタリズム)について。

なにやら文字だけ見ると結構物騒wな感覚がしてしまうのだけれど、ちょっと今回はこの思想を掘り下げて考えてみようかなーと。

ちなみに近年ではラディカルないわゆるツイフェミさんたちにも一部この思想が取り入れられているご様子。

 

注:この記事は「反出生主義のスペシャリスト(?)」(自薦他薦問わず)さんには向きません。

むしろ、そもそも反出生主義ってどんな感じなのかなー?とか、これってどう向き合ったらいいのかなー?くらいのふわっした人が対象w

別に私も特段高い関心を向けているわけでもないので。。なのでそういった生暖かい目線のある方以外はブラウザバック推奨。忠告はしたからね!w

 

初見の印象としては、ずいぶん面白いこと考える人がいるなぁと言った感じで、

あえて極論言うと、どうせいま生きてるヒトも100年後にはみんな死んでるわけだし、あまり難しいことで考え悩まなくてもいいんじゃないかと思いましたまる(小並感w)

 

※ただある意味で、近代以降は公衆衛生や福利厚生の向上によって「とりあえず死なない」というアドバンテージが昔よりある分、

逆に多くの人が反出生主義について考えられるほどの「余裕が出てきた」とも言い換えられるんだろうなと。

 

ちなみに人気ブロガーの自由ネコさんも、このテーマを含め下記の記事中の一部で考えを書いているね。

gattolibero.hatenablog.com

 

初めに、そもそも私の立場を一言で表すのなら、下記の画像。

f:id:yotsumao:20190319134226j:plain

例えば私的には自己責任論はあまり好意的になれないし、基本的には「みんな死ねばいいのに」が口癖なわけだけどw

 

しかしそれは所詮ココロの中で思っているだけで、別に「実践」しようとは思ってないし、究極的にはヒトなんぞどうでもいいわ位のレベル。

だから私は抗いきれない宿命がもし存在するのなら、人類が滅びたって仕方ないよね、それもまた一興、程度に考えている。数多の大衆の論理になんて抗えないのだから、諦め半分。

 

こういった観点のみに絞れば、私は反出生主義に幾ばくかの共通項を持っていると言えるのかもしれないね。

ゆえにこの記事において、いわゆる「ディスったり」「論破しよう」的な発想は毛頭ない。

もう一回強調しておこう、論破的ディスりに繋がる全否定的意図は無い。大事なことなので(ry

 

また学術的な論争(正論か否か)については、それぞれの立場で学問的バックグラウンドがある人々が勝手にやればいいのであって、ネット上の一個人(私含め)がその部分に言及する必要もないよね。

 

他方で、ちょっとこの思想が危ういなぁと思っている点は、

この思想自体でもなく、これを主義として取り入れている人に対してでもなく、「そういうヒトを利用したいと思っている人たち」の存在への懸念。

 

これは後述するけれど、ざっくり言うと、左派的な思想との多少の親和性を見い出せるということ。

 

便宜上、左派と書いたけれど、これでは真面目なリベラルの方々に失礼なので、

あえて言い換えれば「極左あるいはエセ左翼とかプロ市民」という表現になる。

 

そういった胡散臭い人々に、この思想及びそれを信じる人たちが利用されたり、取り込まれたりしないようにしてほしいなぁってことと、

同時になぜ世間の主流からは忌避されてしまいがちなのか、そういったところを今回考察していきたい。

 

記事を複数回に分けてマイナーアップデートしたせいで、長大かつ冗長に文章も論点も取っ散らかってきてワケワカメなので、

ぶっちゃけこれからの社会の在り方論以降(すげー終盤部分w)だけを見れば十分だと思われw

反出生主義とは一体なんなのか?

まず先に結論めいたことを書いてしまうと、これは一種のアンチテーゼで(っていうか「アンチ~」って大抵「元となる何か」に対する疑義だもんね)、

世間で当たり前とされている価値観、あるいは社会において常識とされていることを疑う、という姿勢・態度にこそ哲学的な価値があるのであって、究極的にはその中身は大して重要ではないわけ。

 

また、この主義にシンパシーを覚える人たちも決して一枚岩ではなくて、むしろ主義主張は人によって千差万別の一人一派と言ってもいいのが面白いポイント。

 

一応ざっくりと主義の中身を列記してみる。

 

前提:

  • この世には不幸や苦痛が必ず存在する
  • それを根本解決する世界は実現不可能

 

主張:

  • 出産が無批判に善である根拠はどこにもない
  • 根拠なき出産は究極的に親のエゴである
  • そもそも子どもの出生の選択権は無視されている
  • 社会は子どもの成功に楽観的であり、無責任である
  • 成功は運の要素を排除できない
  • 成功の陰には、不幸になったものが必ずいる
  • 子どもの幸福と不幸の間に、責任の不均衡がある
  • 生んでしまってから、生まれてからでは取り返しがつかない
  • 望まずに生まれた以上、苦痛なく死ぬ自由も担保されるべきだ
  • そもそも人がいなくなれば、この世の不幸や苦痛は無くなる
  • 必然的に自然や動物たちへの破壊が止み、地球環境もよくなる
  • 新たに生むよりも、まず今いる孤児たちを重視すべきである
  • 段階的な人口抑制のために、思想の周知や両論併記が必要である

etc……

 

というわけで、多くの人にとっては結構衝撃的な内容だよねw

 

反出生の方たちにとっては常識的に、いわゆるFAQ的なものが存在してもっと多くの問題点や主張があるのだと思うけれど、

ここでは概ね上記のような主張を持った人々を反出生主義と定義してみる。

 

次項以降では、これらの各点において、詳しく見ていってみよう。

 

まず「正しさ」について考えてみよう

各主張を見ていく前に、まず「正しい」ってことは一体何なのかを考える必要があるよね。

面倒なプロセスだけれど、これも重要。個々のそれこそ「正義感」にも通じる話。

 

「主義」とは何か?

そもそも前提としてなのだけれど、主義ってのは要は「○○であるべき」っていう己の主張のことであって、

自分が信じている行動指針=「考え方のツール」である、ってことなんだよね。

(プラクティカルとかプラグマティック(道具主義)なモノと置き換えてもいい)

 

そう、この主義という言葉の意味の中には、正しさとか間違いという概念は最初から入っているわけじゃないんだね。

 

だから主義というのは別に、「この世の中で唯一無二かつ永劫不変の真理」ではないってこと。

というか原理的に、ヒトがそんなものを見つける術はどこにもない。

どんなに無矛盾に見えても、それは所詮「自分の中で」あるいは「ヒトの中で」の話。

 

例えばある病気があったとして、それに効く薬は山ほどあって、

医者はどの薬が一番良いかを選択するわけだ。(時にはそれが一番保険点数の高いモノかもしれないw)

その薬によって病が完治したとしても、それが絶対の処方箋ではないし、あくまでも方法論の一つに過ぎないってこと。

 

たぶんこの前提から立場が逸れていくと、ものすごーく話が取っ散らかってくるので注意が必要になってくる。

 

では「主義の正しさ」とは何か?

とはいえだ、自分の信じるモノであるからこそ、出来れば正しいと思いたいのがヒトというもの。

 

そこで次に「正しさ」を考える必要があるね。

 

ここでは正しさを、

「ある前提が満たされる場合において、論理的に無矛盾であること」と定義してみようか。

そして付け加えるならば、

「その正しさを多くの人が受け入れること」も大いに関係してくることだと思う。

 

ごく身近な例を出すと、「私は絶対間違ってない。だから私は絶対に正しい」

もしこんなことを本気で言っている人がいたら、それは残念ながら嘘つきだし、注意したほうがいい。

(とはいえ、議論における前提条件の確認や事実認定などの文脈においては、まず双方の認識を一致させるためにしばしば「絶対」を使用することはあるが)

 

口語の中ではよく使ってしまうんだけれど、この「絶対」は誰も証明することが出来ない。

なぜなら、そもそも人間は常に間違うし、不完全な生き物だからだ。

(だからこそ逆に、その失敗や不平等リスクが生まれない反出生主義こそ正しい、というロジックがある)

 

つまり「絶対」が言えるのは、それはいわゆる「神」と同義なのであって、

たかだか「人間」がそれを口にしたとき、それは「思い込み」に過ぎず、もはや何の価値も持たない。

 

話はやや脱線するが、例えば思い込みについて直感にうったえる話として有名なのは、数学的な「公理」の話があるね。

下図を見てみよう。

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この図の中の直線AとBは「平行線」だ。これをいくら右に伸ばしていったとしても、絶対に交わることがない。普通はそう感じると思う。

 

この「平行線は交わらない」ことを「公理」、すなわち証明の必要がない前提(とりあえず正しいという暗黙の了解)として色々な数式や論理を組み立てられるわけだけど、

本当にその「公理」は「正しい」のか?ってこと。

 

これが覆されたのが、大学以降で学ぶことになる数学分野「非ユークリッド幾何学」だね。

 

ごく簡単に言えば「平行線って交わることもできるんだよねー、

っていうか私達が住むこの世界は、実は平行線が交わっちゃう世界なんだよねー」という話だ。

 

つまり私たちが正しいと思っていた感覚は、文字通り「ただの思い込みだった」っていうこと。

(どんなに無矛盾な論理体系があっても、その「正しさ」が成り立つのは「その系の中」だけという話。

つまり究極的に、誰かの脳内で「ぼくのかんがえたさいきょうのりろん」があったとしても、それは所詮「神サマ」にとっては稚拙すぎて穴だらけに見えるってやつ)

 

だから「前提はまず絶対正しい」ということ自体を疑ってみる、もしかしたら実は間違っているかもしれない、という姿勢は忘れてはいけないよね。

(これがアンチテーゼの役目の一つだね)

 

また逆に言えば、どういったことが言えるのなら自分の正しさは崩れるのか(いわゆる「反証可能性」)、

そういったこともあらかじめ明示しておくと、より考え方が深まると思うわけよ。

 

※上記をあえて意地悪にアンチナタリズムに当てはめてみると、そもそも最初からできる限り論破不可能なようにロジックを組み立てているわけだから、

反出生界隈のヒトがウェイトを置きがちな「論破可能か否か」に対して、価値を見出すことをやり過ぎても、正直それほど意味がない。

 

(っていうか絶対的に無矛盾な人生の正解や、この世で唯一無二の信じられる「何か」ってやつをきっとココロが求めているんだろうなぁとは思うけど。

まぁそれはある意味で宗教や神サマを求める現代的な姿勢のひとつだよね。)

 

より有意義な議論の姿勢を考える

さて、ネット上において、出生VS反出生的な議論(?)を見てみると、

いわゆる「相手を論破してやろう」という姿勢がかなり多くみられるということ。

 

別にその行動自体は特に否定しないし、時には必要なのだけれど、同時にものすごく不毛というか非建設的なわけよ。

そもそも、論破できない=絶対に正しい=この世の真理、ということはそれぞれ決してイコールではないからね。

 

単なる論破よりむしろ、それぞれの主張から見いだせる粗さや問題点を洗い出し、

それを改善してより強固な主義に発展させていった方が生産的だと思うわけ。

 

これはつまり端的には、それぞれが逆の立場になって議論してみるということ。

まぁ内心は不服だろうけどねw でもそうして見なければ、盲目的・妄信的になって気づかないことってあるわけよ。

 

また、そういった方法の一つとしては「仮想敵」の設定もアリかな。

 

反出生主義の人たちから見れば「出生主義」が敵性に当たるわけだよね。

(同時に、出生主義の人たちにとっては「出産が是」の人々は同胞になるわけだ)

 

本来のそれぞれの立場は違うとしても、まず仮に共通の敵を設定してみて、

予想反論とか自らの主義における脆弱な部分や矛盾とかを見出していったり、

他方で、他人に分かりやすく&受け入れやすくするための説明の仕方を編み出していく、って流れ。

 

出生主義は「仮想敵」になり得るか?

正直なところ、個人的には仮想敵の設定が難しい命題だと思っているわけ。

 

例えば反出生主義と真逆、正反対の立場や思想が「出生主義」と定義付けるならば、

・出産って素晴らしい!

・出産で自分も子供も幸せになる!

etc……

まぁこういった部分は世論の趨勢的に良く聞く話で、そう思う人もいるだろうねってことで違和感はないんだけれど。

 

ところが一方で、

・生まない自由なんて認めない、いや生め!生まないなら生ませてやる!

……こんな奴どこにもいなくね?っていう話になる。

 

例えば、個人間において「子ども生まないの?」「孫はまだかしら?」的な価値観があるのは分かる。

だけどそれが社会的、あるいは国家的に強制されているか?というと甚だ疑問なわけ。

(つまり単純な二項対立が見出だせず、大衆を扇動した議論の高まりをしにくい構造)

 

もちろん「そういった空気」自体が「広義の強制」だ!と言えないことはないんだけど、ちょっと論理の飛躍があるね。

 

それこそ「出産は是。理由は知らんけど」となんとなく思っている多くの人たちの考え方の方こそ、反出生主義に比べて全くもって千差万別だし、悪く言えば無思考で無自覚なので、

そういった人々をひとくくりにして「出生主義」としてしまうのは机上の空論を生みかねないよね。(というか、のれんに腕押し状態になるw)

 

こういったおおざっぱなレッテル貼りに頼ってしまうと反感を生んでしまうし、

反出生主義の人たちが望む、思想の周知・認知や両論併記を阻害するとさえ思ってるわけ。

 

付け加えるならば、特定の敵性権力者という分かりやすい巨悪(某総理大臣がー、○○党がー的な)が設定できないゆえに、

反出生界隈での思想的結束っていうものは、「空気とか世間」といったフワッとしたものへの批判によってのみ担保されている感がある。

 

だから時々ネット上に記事としてあげられる出生主義「っぽく見える」言論や、逆に反出生主義に対する反論「めいた」言論(例えばこの記事みたくw)を、

反出生界隈の人たちはエゴサーチして見つけ出し、そしてその著者等の特定個人を「仮想敵」として、仲間のクラスタ内で批判(ないし嘲笑)してみるっていう作法がある様子。

まぁそういった各個撃破は無意味とは言わないけれど、それで世間の潮流が変わるのかは大いに疑問だよね。

 

※敵対勢力(?)における否定的な言い回しの使用を1mmも許さない感じ。(なぜなら「真理」だから、文句を言う輩の方がおかしく、対案も要らない的なw)

こういった思想の是々非々を許さず、全肯定を望むところはまさしく左派的(これは右派も共通して言えるかw)な、内ゲバや仲間割れを防ぎ、集団内の忠誠心を確かめたり、結束力を強めるシステムの一つでもあるよね。

(それでも政界や宗教等を見てみれば自明なように、副作用でもある「集団の先鋭化」に伴って、「教義」の解釈の微妙なズレからリーダー格人材の独立を伴った分派はありえるけどね)

 

反出生主義を考えよう

まー、ここまでぐだぐだと言ってみたわけだけど、ここからがようやく本題。

とりあえず私自身が「仮想敵」となってみて、実際に反出生主義の「中身」について個々に考えていってみようね。

 

ポイントは、思想が悪意のある誰かに利用される危うさがないか?そして社会的に公平な両論併記を目指せるか?だよ。

 

※本来それ程までに「正しい」ならば、皆に無批判に受け入れらてもいいはずなのに、「なぜか」受け入れにくいとされている様子。

ならばそれは、根本的にヘンテコな部分があるか、説明の仕方(広め方)がイケてないんじゃね?(多分こっち)って話になってくると思うわけよ。

(ただし反出生主義的に言わせると、大衆は「馬鹿で非合理的で非論理的で無自覚」だから受け入れない、というちょっと上から目線なロジック。ゆえに表現が過激になりがちで、感情も逆撫でしやすかったりするよね)

 

前提は客観的で合理的なのか?

この主義における前提はこれだね。

  • この世には不幸や苦痛が必ず存在する
  • それを根本解決する世界は実現不可能

 

あらかじめ結論めいたことを言っておくと、

この前提部分こそ「反出生主義」が他者にとって分かりにくく&受け入れにくくしている大きなポイントの一つ。

 

不幸の絶対的存在性

まず1項。不幸の絶対的存在性。

この問題においては、幸せって何?も同時に考える必要がある。

 

一応世界には「幸福度調査」っていう指標があるから客観的なモノに見えるわけだけど、果たしてその「幸せ」はどうやって測ることができるのか?って話。

 

例えば、酒池肉林で毎日を過ごしているどこぞの国王がいたとして、この人は幸せなんだろうか?また本人は幸せと言うのだろうか?

(お金があって将来が約束されて、現在も何不自由ない生活だとしても、幸せとは限らない問題=釈迦はまさにこの類似パターン)

 

あるいは逆に、カーストの最下層で虐げられている(ように見える)人が苦行に耐え、死の後に起こる転生を期待していた時、この人は幸せなんだろうか?また本人は幸せと言うのだろうか?

 

(※個人的には絶対避けたい立場だし、もし自分が陥ったらおそらく私も反出生を世界に叫びたくなるだろうが、むしろ生まれたときからカーストという社会システムが機能している環境で

下位に属する当事者の方たちは、それを喜んで受け入れている節もある=なぜなら修行や苦痛を耐えることによって来世で魂のステージが上がると信じているから。

まぁそれで既に回っちゃっている国=社会はしょうがないし、他者がどんなに不憫だと思って変えようとしても難しいけれど、それを逆にこちら側に素晴らしいモノとして持ち込もうとされたら普通に拒否するよね)

 

こう考えると、幸せの尺度というものがものすごく主観的で、かつ少なからず他者との比較を排除できないっていう問題があるわけよ。

 

「いいや!私たちはその苦痛や不幸が「ゼロ」ではないことを問題にしてるんだ!」と思うだろうけど、

それは「反出生主義に行き着くほどの不幸や苦痛を特に感じていない人」にとっては「そりゃそうだろうけど、何か?」程度にしか思われない。

 

(というか反出生主義に行き着くまでに、その人の主観的な不幸のバックグラウンドを持っているがゆえに、この思想に傾倒するケースも否定できない。

だとするならば、その時点で既に他者とは幸せ・不幸せに関する価値観のスタート位置が違うのだから、当然意見も食い違う)

 

その苦痛や不幸を「老い、病、死」という生物として避けられない命題に置き換えてみても、

多くの人々にとっては自らがその立場にならなければ実感はどうしても薄くなってしまう。

 

「老い、病、死」に最も縁遠いと言える幼稚園児に、それについて真剣に考えろといっても経験の無いことを語れないし、そこで導き出された実感は所詮想像の域を出ないのは自明なわけよ。

 

「ほら!だから世の中はみんな馬鹿!私達の方がきちんと考えているのだ!」と言ってしまっては身も蓋もない。

仮に反出生主義の理性や倫理観、頭脳のステージが高いエリートだったとして、説得すべきは「その他の大多数の馬鹿な大衆」なわけで。

(しかもその大衆は放っておいても「増える」。ゆえにその思想は傾向的に反出生に傾きづらい)

 

不幸根絶不可能論

次に第2項。不幸根絶不可能論。

この世から不幸を無くすことは出来るのか?少なくとも私の立場としたら、ヒトがヒトである限り(皆が聖人にでもならない限り)出来ないだろうなーと漠然と思ってる。

 

ただ逆に「絶対に」出来ないと断言するのもいささか語弊があるわけ。

(まぁその頃にはこの地球上の勢力図は大きく変化しているだろうし、ヒトという名の別の生き物になっているだろうねw)

 

それは先述のように、「幸せ・不幸せ」には主観性を伴うのだから、客観的に見て「不幸せ」とか「苦痛」の状態であったとしても、それを本人がそう感じなければ問題無いとも言えるわけよ。

 

すると例えばだ、出生後すぐに感情を司る大脳辺縁系を薬物で破壊するのが義務付けられた社会があったとすれば、そもそも苦痛とか不幸の問題は解決するよね。

(やれるかどうか、やっていいかどうかは別として「絶対」不可能じゃないよね?が言えてしまうよねって例w)

 

そもそもだ、この「根本的に」解決しようっていうところが、結構違和感を覚えやすいポイントでもある。

そして冒頭でも言及したように、左派系の一部にみられる言論の傾向の一つ。

 

かの毛沢東は「白い紙にはどんな画も描ける」と言っていたわけだけど、

社会の諸問題を一挙に解決するにはそりゃ全て破壊して作り直した方がいいよね?

でもその結果、どんなことが起きたのか?それは歴史を見れば明らかなわけよ。

 

どこかを改善すれば、どこかがダメになる。そしてそれを改善したら、また今度はこっちが……を永久に繰り返していくのが近代社会なのであって、

それを「根本的に」イデオロギーによって解決しようっていう発想自体がちょっとナンセンス。まぁ一見カッコ良く見えるのは分かるけどね。

 

そしてその根本解決思想は、現に今も世界のどこかで差別や貧困や弱者に向き合って、それを打破していこうっていう人たちの行いを無意味だとしかねない発想だし、まず真っ先に反感を買うだろうね。

それをいくら感情論と言っても、だって反出生主義が社会に認知されるには、そういった人たちこそ真っ先に救って説得しなきゃいけないわけだからさ。

 

主義の中身を見てみよう

さて、とりあえず前提の問題点はあるにしても、

極論バカ合戦になっては身も蓋も無いので、ひとまずそれが「正しい」と仮定してみよう。

 

そしてその前提から導き出せる主張はこれらだ。

  • 出産が無批判に善である根拠はどこにもない
  • 根拠なき出産は究極的に親のエゴである
  • そもそも子どもの出生の選択権は無視されている
  • 社会は子どもの成功に楽観的であり、無責任である
  • 成功は運の要素を排除できない
  • 成功の陰には、不幸になったものが必ずいる
  • 子どもの幸福と不幸の間に、責任の不均衡がある
  • 生んでしまってから、生まれてからでは取り返しがつかない
  • 望まずに生まれた以上、苦痛なく死ぬ自由も担保されるべきだ
  • そもそも人がいなくなれば、この世の不幸や苦痛は無くなる
  • 必然的に自然や動物たちへの破壊が止み、地球環境もよくなる
  • 新たに生むよりも、まず今いる孤児たちを重視すべきである
  • 段階的な人口抑制のために、思想の周知や両論併記が必要である

 

そこで次項からは、これらの各論を見ていってみようね。

 

出産は善?悪?

ちょっとこれについて思うのは「善悪」あるいは「正邪」と言い換えてもいいんだけど、

おそらく基本のロジックとしては、

不幸の絶対的存在性=そしてそれが回避可能かどうか分からない=にもかからわず産み落とすのは=すなわち悪、ということだよね。

 

 もし悪ならば、それは誰がどうやって判断しているのか?っていう問題がある。

「悪いもんは悪いやん!だって不幸になりかねないのに!それ分かってへんのやから!」

という反論があるかもしれないけれど、だからそれがなぜ「悪」なのか?ということ。

 

少なくとも私は善悪とか正邪に関して、哲学的でも宗教的でもいいんだけど、明確な答えってのを知らないわけよ。

あえて言い換えれば「みんなが悪いって思うモノ」が悪だよねくらいの認識。 答えの出ない問題。

(例えば悠久の歴史の中で「生きる意味」だって明確な回答ができないのと同様)

 

だからみんなが明確に悪と思ってないから、趨勢的にはこの星の人口が増えているわけだよね?

(※もちろん途上国では稼ぎ手としてのリスク分散の発想があったり、医療や避妊の未発達や未普及の面があるだろうし、

他方で先進国における少子化傾向とかも、そもそも反出生主義に傾倒する人が増えたから、とかじゃなく経済的事由や教育コスト問題など多岐にわたる)

 

例えばよくガンジーとか釈迦の言葉を引用して、ゆえに「出産は悪」としている場合があるんだけれど、

別に哲学者でも思想家でも文豪でも、その人たちが常に正しい根拠はないからね。それは単なる権威主義になってしまう。そう思う人もいたんだね、というだけの話。

 

そもそも子だくさんのガンジーがそれを言うか?wって話になるし、釈迦についても結構誤解があるけれど「釈迦本人の正確な言葉とは限らない」からね。(これは仏教全般の教義にも言える。議論の分かれる解釈問題)

大雑把に言って、少なくともシャカは「この世もヒトも無意味で無駄だ」的なこと言って涅槃に旅立ったんじゃなく、

「無意味なんだからむしろ悩むの無駄だぜ」的なことを伝えたと私は理解しているんだけれど、まぁそれさえも弟子たちが口伝でそういった教えを受け継ぎましたー(棒、って言ってるだけだよね。

 

(※脱線。この仏教系の文脈でよくある「考えるのをやめた」的の悟り風の発想は、一部の東洋哲学における「事象を事象そのものとして捉える=考えるのは無意味」に繋がっているはずで、

対して西洋哲学における「事象をとことん突き詰めて究明する」からの近代科学の発展に差異が生まれた一因でもあるよねっていう)

 

(※さらに脱線。偉人関連で言えば。慶應義塾を開き1万円札でもお馴染み福沢諭吉は、かの「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の序文で有名だけれど、

続いて「(神サマはヒトを平等に造ったはずなのに)賢さや愚かさ、貧富の差があるのはなんでやねん?」ってことで、その原因と解決として「学問のすすめ」で学ぶことの大切さを書いたわけだ。

つまりひいては、ヒトの幸せやら不幸やらは結構その人が修得した「学問」というファクターで左右されちゃわね?って話)

 

さて閑話休題、屁理屈こねてるわけじゃなくって何が言いたいかというと、

たぶん出産に善悪の問題を持ち込むと感覚的な図式として分かりづらくなるというか、

むしろ反出生主義という「哲学的なこと」まで深く考えることが出来る頭がいい人は、「ならば善悪とは何か?」的なことも同時に考えられちゃったりすると思うわけよ。

 

つまりそういう頭のいい人を説得しようと思ったら疑問を投げられちゃって、それについて回答したらまた更なる疑問を呼ぶっていうか。んで延々議論になっちゃって、そもそも説得しづらいというか。

(でもそういった「超絶」頭のいい人を懐柔しないと社会が動かない。そしてすんごい馬鹿はそもそも話を聞かないし分かってくれないw

ゆえに説得できるのはあくまでも中間層の一部だけかもっていう。。)

 

そしてその善悪含めた観念論ってのは、明確に誰もが共通して納得し得るコレ!っていう言及が難しくて、すごく曖昧な形の議論になっちゃいかねないよなーと思うわけ。

 

出産は親のエゴ?

反出生主義の人たちが最も嫌悪感を示すポイントでもあるよね。

これに関してはね、正直なところ大きく二分されると思ってる。

 

いわゆる「出来ちゃった」に代表される無思考・無自覚パターン。

もう一つは「子どもがほしい!」とか「母親になりたい!」的な自己実現パターン。

 

前者においては、非難されるべき側面も確かにあるよね。

 

例えば基本的に親は子より早くこの世を去るのだから、それまで自らの子を「一人前」にすることができるのか、経済的な面とか教育とか様々な要因を考えて、

そしてそれらを検討する中の一つの考え方として生まない・作らないという選択肢の「反出生主義」があってもいいと思うよ。

 

一方で後者のパターン。

これはちょっと否定しにくい。なぜなら親にだって当然「幸福追求権」があるはずで、

公共の福祉に反しない限り、とか他者の権利を侵害しない限り、なーんていう制約付きの権利があるわけだよね。

 

「子どもを利用するなよ!」という感覚は心情的に理解できるんだけど、他方でそれは公共や誰かの権利を蔑ろにするのか?っていう問題に行き着く。

 

すごく極端に言ってしまえばね、誰かの欲求を満たすためには少なからず誰かの欲求は無視されることもある。

それは出生主義とか、反出生主義に限らず、目の見えないところで日常的に起きていること。

 

それを果たして是とするのか?なんかもうね、いわゆる法律の在り方とか人権問題になってきちゃうわけよ。

(きっとどこぞの外国みたく、自分を生んだ親を訴えて不当or違法判決を勝ち取ったり、果ては国を相手取って違憲問題にまで持っていかないと、公平な判断は難しい)

 

そしてその人権範囲をどこまで広げるのか適用するのか(「生まれる前の、というか受精卵以前の"ヒト"」にまで定義を拡張するのか)、ってことでかなり別問題になってきちゃうし、

反出生主義においてここを論点にしだしちゃうと結構めんどくさい議論&かなり長いスパンが必要になってきちゃうなぁと思うよ。

 

子どもの出生の選択権は無視?

これ、わりと反出生主義の中でよく見かけるんだけれど、いわゆる「生んでくれって言った覚えはない!」問題だよね。

 

うん、その通り。でもそれを言われる方としては逆に生まないで、とも言われてないよね? っていう親子間において古今東西よくある光景w

なんかバカ合戦になっていくようで好きじゃないんだけどw

結局原理的に事前の意思確認不能なものを命題とするのは、すさまじく不毛だしちょっと周囲の理解を得にくい。

 

※さらに中絶の是非問題も複雑化する。もし望まずに出来てしまったら(だったらそもそもするな!はひとまず置くとして)、子に意思確認していないのに堕ろして良いのかどうか。

(そもそも確認不可能だからこその反出生なんだろうけどね、理解しづらくしている)

 

まぁとはいえ、世間にありがちな「子どもは親に感謝するべき」論は、確かにいささか慎重になった方がいいだろうね。

 

だって現にダメな親だっているわけだからw そういったいわゆる毒親問題で、こういった思想を思わずにはいられない人だっていると思う。

(まぁ何でもかんでも"毒親"と表現するのはあまり好意的になれなくて、いわゆる親の心子知らず、子の心親知らずってレベルのことも時にあるんじゃないかなと)

だから大人や親に常に無批判でいろっていう言論に対しては、私は慎重になるべきだと思うし個人的に距離を置いている。

(とはいえ経済的に養われていると、感覚的に文句言いづらいってのはあるけどね。飼い主に噛みついている馬鹿犬みたいな感じになってしまうので難しいところ)

 

ただし当然親も大人も完ぺきなはずではないんだけれど、他方で子供というものは視野が狭いのもまた事実。

これには反感を覚える人もいるのだろうけど、それこそ10代や20代の価値観・世界観のまま大人になって通用した人ってどれくらいいる?w

 

「ウチら最強!ぜったい正しい!ウチらが世界の中心!」ってそりゃ若いころは思うんだけど、だんだん歳を重ねてくると「あ、意外とそんなこと無かったわ」ってなるわけよ。

この超高齢社会の現代において、30代・40代の常識だって決して通用するとは言い切れない。

まぁこれは社会に毒された、という表現もできるのかもしれないけどねw

 

ということで、若くして反出生主義に傾倒してしまった場合、それが必ずしも後の自分の思考と一致するかと言ったらまた別問題。教育や環境でいかようにも変化し得るのよ。

(そしてそこで生みたい!となってももう遅いこともある。まぁこれは科学が解決する領域だね)

 

だから若い時の価値観なんてペラッペラなのはよくあることなので、

(それは時に学者でさえ変遷があって、お前昔と言ってること違うやんけ!はよくある。昨今の経済学では良く取り上げられるJ・M・ケインズの若かりし頃の思想や主張の変化とかw)

不必要に反骨精神で「生んでくれって言った覚えはない!」的なキーワードを利用すると、

その思想が理解できない人にとっては単なる若気の至りや黒歴史の一部と判断されてしまうし、多用しない方がいいんじゃないかなぁと思うよ。

 

(蛇足の話。アカデミックな、例えば経済であれば自身が信じて研究ないし提唱している説があっても、現実の問題がそれに則さずその打破が急務となれば、

ひとまず自らの社会学的な信念を脇において、とりあえず効きそうなモノは政策的に全部やれ!と提言する柔軟さがあったりする。

合理的期待仮説で名を知られるロバートルーカスのリーマンショック時の言説などまさに良い例。

 

※これは学者が日和ったわけでもブレたわけでもなく転向したわけでもなく、単に理論と実践は別だという現実的な対応。

その一方、アンチナタリズムでは、そもそも自身が唯一無二の正解と説いているわけで、一度それを主張したらむしろ上記のような「裏切り」が許されない感があって、

そういった構造的な空気を考えると、党派性を排除したり時に他者との寛容な協力関係をなすことが難しいのでは?っていう)

 

そんなこんなで、別に生んでくれなんて頼んでない!と「思う」自体はいいんだけど、それを主義に係る主要な論点として哲学的に抽象化して掲げちゃったり外部に表明しちゃうと、単に多数の同意が得にくいんじゃね、っていう話。

 

子どもは成功する?そして成功とは?

ここではおおよそ論点が似ている下記の3点を考えてみようかな。

  • 社会は子どもの成功に楽観的であり、無責任である
  • 成功は運の要素を排除できない
  • 成功の陰には、不幸になったものが必ずいる

 

ここでは成功を、「社会的あるいは経済的な成功=それが幸せ」と仮定してみようか。

もちろんこれ以外の要素を入れてもいいんだけど、客観的な判断が難しくなるからひとまず置いておくよ。

 

まず1項。そもそも「あぁこの子は不幸(成功できない)になるわ!」と思って生む人がどこにいるのだろう?ということ。

まぁ色々考えた末にそう判断する人もいるだろうけど、多くの場合は「幸せになりますように!」じゃないのかなぁ。

そしてさらに多くの場合、それに向かって最大限の努力をするだろう。(全員が必ずそうだ、とも出来るとも言ってない)

 

うん、成功の根拠はどこにもない。そして寿命的にも責任は取れない。単なる精神論。

、、と言ってしまうことは可能なんだけど、

むしろ第2項の「成功に運の要素を排除できない」からこそ、断言自体が不可能な問題じゃないかな?

 (ゆえにおそらくこれは、反出生界隈が最も許しがたいことの一つだろう)

 

「そのリスクあるなら子供作るなよ!生むなよ!」と思うだろうけど、そうすると、

前述のような「既に現世に生まれ生きている親の幸福(になろうとする思い)」についても考える必要があって、

「子どもを利用するなよ!」「そんなこと知るかよ!」と言ってしまっては身も蓋も無いわけよ。

この観点に絞っちゃうと単なる水掛け論というか、トートロジーになりかねない。

 

第3項。いわゆる勝ち組と負け組の存在。

この部分は当たり前の話で、だからこそこの世は地獄であるとか、その不幸側に立つ身になってみろという話になるわけだけど、

これは前述のように「根本的な」解決を求めるかどうか、の態度の違い。

 

例えば、ほとんどの人はなんとなーく「資本主義」ってものの中に生きていて、

その有難さを無意識的に享受する一方で、いわゆる「負け組」も確実に存在する。

 

その問題意識は誰もがあると思う。資本主義マンセーは一部の人たちだけかもしれないね。だからと言って他に何があるのか?という話。

その「根本」解決を求めて、「社会主義」とか「共産主義」があったわけだけど、一体どういったことが行われたのか?ということ。そして今それらはどうなっているのか?ということ。

 

結局今も行われているのは、そういった現代社会の歪みを少しずつメンテナンスしていって、社会全体で責任を取るようにしたり保障したりすること。

それは「社会全体における幸福の最大化」(絶対に不幸ゼロとは言ってないところがポイント。肝心なのはパイを増やすことで結果的に皆が得できる)、つまり問題解決に向かう姿勢の違いってことなんだよね。

 

幸福と不幸の間の「責任の不均衡」

これは面白い論点なので、単独で取り上げてみるよ。

たぶん言葉で説明をするよりも、図の方が分かりやすいと思う。

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ごく簡単な論理テーブルなんだけど、ここから導き出される解っていうのは、

「子どもを産まない方が全体としてみて責任が履行される」ってことなんだよね。

 

つまり言い換えれば、生まれなければ最初から責任問題はないけど、

生まれた以上は必ず不幸になる者がいる=つまり責任の不履行が存在する。

 

言ってることはその通りだね。ただしこれにも問題点が無いわけじゃないよね。

それは「なぜ幸福と不幸が同数(等価)とみなしているのか?」ということ。

(なんとなくいわゆるトロッコ問題にも通じる設定だよねぇ。まぁ数の多い少ないで語る問題じゃないのはひとまず置いておいて。)

 

幸福の方が多数であれば、不幸による責任の不履行の損害は最大限小さくできるわけよ。

(というか社会全体のパイが増えてラッキーが多くなると、本来不幸側だった人もそれを享受できる。とはいえその内容が不幸側が望むものかどうかはまた別だが。)

しかしこれについては、反出生側からの反論がある。

「万人が幸福であれば、ただ一人の不幸を相殺できるのか?」ということ。

 

これは「そうです!」と答える人もいれば、「違う!」と答える人もいるだろう。

 

うん、なんとなくここまで見てきて分かる方もいると思うんだけど、

反出生主義というのは、基本的に「不幸(犠牲)をゼロ」にする根本解決を求めているわけよ。

そしてその不幸に、自分があるいは我が子が陥るリスクを懸念しているというわけだね。

 

だから最初から私はこの主義をアンチテーゼと表現したけれど、これはつまり現在の社会問題に潜在するリスクをどう捉えるか?という話でもあるわけ。

 

望まずに生まれたらどうするの?問題

さて、ここでは下記の2点に言及していくよ。

  • 生んでしまってから、生まれてからでは取り返しがつかない
  • 望まずに生まれた以上、苦痛なく死ぬ自由も担保されるべきだ

 

まずは第1項。生まれた後に「うわぁすさまじい苦痛だ!不幸だ!いや、もしこの痛みがなくなったとしてもいつか老いて死ぬ!どうしてくれるんだ!」となったら?という話。

※ただ、だとするとなぜ後述の「安楽死」が救いになるのかよく分からないし(だって結局それは恐れて忌避したいモノであるはずの「死」なわけじゃん?)、

さらに現行の(通常の)終末医療において苦痛と恐怖にまみれた「死」しか施されないという世界観なのかよく分からない。

 

まぁいずれにしてもそう、生まれたが最後、取り返しがつかないんだね。でもここも結局その問題に対する向き合い方の違いなわけよ。

 

例えば、原発問題に置き換える。

「絶対安心じゃないよね!放射性物質の半減期はウン万年!?安全に管理なんて無理に決まってる!いますぐ原発ゼロだ!!」

うん、実に左派的ロジックw 冒頭の方で言及している思想の親和性の一つ。

 

確かに原発ゼロにすれば、根本的に問題は解決するかもしれないし、危険もゼロになるかもしれないよね。

でも他方で「既に有るわけだけど、コレ一体どうするの?」っていう話になってくる。

 

このように震災によって多くの人がごく身近な問題として感じ始めた原発問題でさえ揉めるのに、

かなり漠然とした「死生観」を問うレベルの命題で根本的な解決策(?)の合意を得るってことがいかに難しいか分かると思うんだよ。

 

これを出生の問題に当てはめれば、

現状の社会の方向性としては、「生む生まない」および「幸せになるかならないか」を考えるよりも、

「生まれてからをどうするか」を重視するってスタンスになってるわけだね。

 

さて、第2項。せめて苦痛なく自由に死ぬ権利認めて論。

これはいわゆる尊厳死、安楽死の問題にかかわってくることかな。

 

ヨーロッパの一部では導入されている!だったら日本でも、世界でも権利を認めるべきだ!という発想は確かに分かる。

だがそれを言い出すと逆に、日本は死刑を導入してる!海外でも死刑を認めるべきだ!等も成り立ってもいいはず。

こういったヒトの「生き死に」の問題な以上、これは海外がどうとか、世界がどうこうって話ではないんだね。国家の主権にも関わってくる話。

 

さらに、例えば安楽死と言えばオランダが有名だけれど、決してそこに制度上の問題が無いわけじゃない。

自死を選ぶだけの苦痛があるのか?そしてその苦痛はあらゆる手段でも排除できないのか?果たして本人が本当にそれを望んでいると言えるのか?そしてそこに客観性はあるのか?

これらの判断をヒトが誤りなく判断し行なうことが出来るのかということ。(そしてヒトは必ず間違う)

「あぁ生きる意味なんて無い。死にてぇわ」というノリで行けるものでもないんだね。

 

さらに国で安楽死施設を認めると、また別の問題も発生する。

 

「自死を選べない人たち」の問題だ。その一端としては宗教上の理由があるだろう。

教義上、自殺が罪な場合、その人たちはどんなに苦しくても施設の利用ができない。

「それはその宗教を信仰しているお前が悪い」と言ってしまっては身も蓋も無い話。

 

もちろん別パターンも成り立つ。「この世なんて幻。死さえも幻」という教義を捻じ曲げて信奉していた場合。

ここでは一応便宜上、それを仏教における空観としようか。空とは、色即是空・空即是色のアレだね。

もちろんこの思想自体は何の役にも立たない。せいぜいどっかで瞑想している間に悟って餓死するだけだろう。(まぁそれを片付ける社会的コストはかかるw)

 

だが「死さえも幻」=ゆえに死んでも構わない、という論理的な帰結に結び付くと話は別だ。※加えて、より苦しんだ方がより良いという(カルマ思想的な)考えがあると、さらに醜悪。

それは時に救済と称して、集団自殺を招くし、大量殺人もあり得る。

また、そういった思想の者が安楽死施設の「管理側」に潜り込むリスクは完全に排除できない。

※もっと言うと、そもそも生まれなければ死ねないので、反出生が多勢になると彼らの教義(死ぬことが善)は優位に果たせなくなる。不平等。

 

また、安楽死ってものが真に万人に対して「安楽」なのか確かめる術がない。(例えば全身麻酔下における手術でも意識・痛覚があったという報告も稀にあるように)

そして訪れる死が、果たして悠久に無の安らぎを与えてくれるのか(もしかしたら全く逆に永遠の地獄かもしれないし、単なる現世へのループかもしれない)、これも検証も報告も出来ないよね。

 

ってことであえて、ものすごーく針小棒大なことを言ってみたのだけれど、

要は反出生主義というものが「どんな小さなリスクも完全にゼロにする主義」と訳すならば、理想の救いとしている安楽死導入にもリスクは十分あり得ますよ、という話なんだね。

 

人間はそもそも害悪なのか?論

ここでは下記の2点を扱ってみる。

  • そもそも人がいなくなれば、この世の不幸や苦痛は無くなる
  • 必然的に自然や動物たちへの破壊が止み、地球環境もよくなる

 

まぁこれらに関しては、もはや上記で散々述べてきた主旨に被る部分が多いのだけれど、

それへの反応は2点とも「そりゃそうだろうね」あるいは「そんなことないんじゃね?」に大きく二分されるだろうね。

 

「いじめや戦争はなくならない!どんなに無くそうとしても現に苦しんでいる人がいるじゃないか!だからその原因はヒトなんだ!」的な話。

 

うん、別に言っていることは間違っていないと思う。でも間違ってない=誰も論破できない=だから正しい、というロジックは少し飛躍しているんじゃないかな。

 

結局のところ、問題解決に向き合うスタンスの違い。これは繰り返しになるので言及は避ける。

 

ただ別の論点として、いきなりここで「地球」とか「環境」が挙がってくることに、微妙な違和感を覚えるわけよ。

ここにすごく左派的な発想を感じてしまうわけ。

 

彼らの中の一部は、「絶対否定できない」(とあえて表現する)命題を挙げてくることがしばしばある。

例えばそれは「人権」であったり、時に「地球」であったり「動物」であったりする。

これらを否定することは可能か不可能か、でいえば可能だが、その瞬間「お前はそれでもヒトの心があるのか!」と来る。

 

つまり命題が倫理観と密接に絡み合っていて、否定自体を許さないわけだ。

これを出された瞬間、多くの人は思考停止にならざるを得ないし、その思想から距離を置くことになるだろうね。

だからそういった論法で来てしまうと、万人に受け入れられる認められる思想にはなりにくいということ。

 

前述のように、それを「みんながバカなんだ!ただの感情論だ!」とののしることは可能なんだけど、

多少でも自らの思想を認めてもらうにはそういった「大多数の馬鹿で無思考な大衆」を説得して共感を得る必要があるわけだ。

 

少なくとも、ここまでの反出生主義の多くの主張は、

社会やヒト、そして己というものに対する問題提起であって、アンチテーゼとしての価値はあると思うわけよ。

 

ただその後の帰結として「地球」とか「環境」といったようにいきなりスケールが大きくなるとなかなか皆が付いて行きづらいし、

うがった見方をすれば自己の思想の正当性を担保するための「エクスキューズ」にさえ捉えられかねないから注意が必要だよね。

 

これからの社会の在り方論

下記の残り2点は微妙に関連するので、ここではまとめて言及しようかな。

  • 新たに生むよりも、まず今いる孤児たちを重視すべきである
  • 段階的な人口抑制のために、思想の周知や両論併記が必要である

 

まず第1項。一見すごく聞こえのいい話だなぁ、とは思う。もちろん決して見過ごせない問題だしね。

例えば一つの策としては、孤児を反出生主義家庭の養子としたりするわけだ。

 

しかし一方で今までの主張をベースに考えると、ちょっとここもおかしな部分が無いわけじゃない。

なぜ自分、あるいは社会が面倒を見れば、その孤児を不幸から「確実に」救うことができると言えるのか?まぁこれは孤児のままより良いはずだ、という観点もあるけどね。

 

他にはこんな疑問もある。ざっくりと反出生とは「出生および出産は悪」よって「私達は子供は作らない」という発想なわけだけど、

すると「孤児をどうやって適切に教育するのか?」という問題に行き着く。

 

つまり「この世は不幸を完全に回避できない」よって「生むこと自体が悪」だとするならば、

一体そこで自ら引き取った孤児(社会全体が引き受ける、としてもいい)に対して、どのように論理的な整合性を保つのか?ということ。

 

これは孤児側の視点ではこうだ。その孤児は間違いなく誰かが産んでいるわけだけど、他方で「この世は不幸」、「出生は悪」と教えられる。

一見自分の存在理由と矛盾する思想、でも他方では出生を是とする人もいる。一体どちらを信じるのか?信じればよいのか?

 

これは第2項の反出生主義の周知・認知、および両論併記にも関わってくる話。

究極的に「ヒトは滅びた方が良い」の思想なのだから、(もっともそれは一部の極端かつ原理主義的な反出生思想論者だけだろうが)

滅びるべきヒトの社会に「不幸にも生まれてきた子どもたち」に一体どのように話をするのか?ということ。

 

これは子ども自身の存在意義や人格形成、アイデンティティーにも大きく影響してくる部分だろうね。

何か「子どもの目には絶対触れないような思想の周知の仕方」があるのだろうか?いや、まず無い。

「どんな小さなリスクも完全にゼロにする」ことを是とする主義において、これを見過ごすということはすさまじい矛盾なわけよ。

 

おそらくこの点が、もっとも両論併記を阻む最大の理由。社会が分かってくれない、のではなく、社会にとって受け入れにくい思想だということ。

 

いやまぁ極論、なにかすごい方法で一切子供が卑屈にならずに、反出生主義に従って段階的に人口抑制が出来たと仮定しようか。

でも数が少なくなってきた時に残るヒト、最後に残るであろうヒトは一体どうやって選別されるのか?また全世界的に少なくなってきた人口で、どうやってそのヒトたちの生活を保障するのか?

ここには確実に不平等が生じてしまう。(んなもんロボットやAIにやらせればいいとか言うのかもしれないけどw きっとその頃はそういった「無機物に対する人権」問題も出てそうw)

 

※さらに言えば、反出生を順次推し進めていくと、現状マイノリティであるとされる反出生界隈がいずれ、出生は是とするマジョリティと立場(≒数)が逆転するタイミングが必ず来る。

そこがおそらくかなり反動(反発)のきつい転換点となるはずで、果たしてそれを「平和的な話し合い」のみで解決していけるとは到底思えない。

 

人類の悠久の歴史の中で、この反出生というアンチテーゼはわりと古くからあるにもかかわらず、

何ら疑問を持たずヒトは繁殖を繰り返したのだから、ここで突然「人類の位階」が何ステージか上がって、いきなり全世界的に反出生主義に傾くということはちょっと考えにくいわけよ。

 

つまり自然発生的にこの思想を推し進めるのが難しい場合、当然国や世界が少なからず主体的に関わることになるだろうね。

ということはそれはまさに国家による権利への管理や介入であって、少なくとも近代社会が受け入れてはいけないこと。

こういった部分が、本当に悪い意味で左派的なわけ。

(というかこの手の左派的な、全員が統一されたイデオロギーを持たないと成り立たないっていう事象自体が既に不自然だし、端的に言って気持ち悪い。ヒトを「殖やす」のは一部でも出来るけれど、「無くす」は全員がやらなきゃいけない)

 

というかね、もしそれも無批判に上手くいったとしよう。ヒトは滅びた。

でも「やったー!」ではないはず。この地球上には他にも「動物」や「植物」つまり「生物」は残るよね?

ということはまた悠久の歳月の後に、知的生命体が出てくることもあるわけよ?別の「地球的な星」でも同じだけどさ。

すると「どうやら地球の過去の文明は反出生主義なるもので滅びたらしい」って研究されたりするわけ。

そしてまた論争、んでまたその次世代の人類も反出生主義を受け入れて滅びた……ってこれをいつまで繰り返すことになるの?

(もし自分(たちの世代)や我が子さえ反出生ならそれでいい!とすると、おそらく憎むべき自らの親含め「馬鹿で無自覚な大衆」と本質的に同類になってしまいかねないので、上記を含めて考慮しないわけにはいかない)

 

これの最終的な帰結としてはね「この宇宙全体が無に帰せばいい」と何ら変わらないのよ。まさしくそれは「虚無」(そしてまたビッグバン起きたりとかねw)

んで、無なのだから観測者がいない以上「反出生主義が正しかった」とは誰も評価してくれない。「そしてヒトが滅びた、やったー!」って思う自分も、もはやいない。

(もちろん「魂」っていう存在がこの世に無いならば、という前提でね。てか魂の世界でも出生vs反出生論争があったら面白いねw そしてさらに高次元の~的な無限ループw)

 

こういったものを、ヒトは何と呼ぶか?単に一言で、「不毛」っていうわけ。

究極的に、反出生主義が多数派あるいは両論併記になりにくいのは、自己というモノに対する問題提起をどんどん大きな対象へスケールアップしていってしまうから。

(そしてスケールアップせざるを得ないような構造的問題を内包している)

 

せめて「国」とか「社会」への自己の「在り方」あるいは「生き方」に対するアンチテーゼ程度にとどめておかないと、おそらく反出生主義はこの先ずーっと変な目で見られてしまいかねない。

 

~まとめ的な何か~

まぁなんやかんや言ってきたけれども、これらはすべて私の「意見」であり「見方」であり、要は「主観的なポエム」(「詩」を揶揄しているわけではない)ですよw

 

しかし冒頭でも言及した通り「論破」とか毛頭考えてないんだよね。

単に反出生って身近じゃない(というか良く知らない)人からすると、こう見ることもできるよね?というだけの話。

だから当然、絶対これが正解だ!論理的だ!最適解だ!、お前ら全員間違ってる!とかも全く思っていないわけ。

 

でもきっと記事全体どころか、ほんの数行前後さえ読解せずに、一部の言い回しや言葉の綾としての表現だけを切り取って曲解されるんだろうなぁ(棒

まぁ私自身もそういう傾向は否定できないw きちんと付言しないと伝わらないし、日本語って難しいねw

 

おそらくバリバリの反出生主義の人たちにとっては、それこそFAQに載っているレベルで「論破」できる論点もあったでしょう。反出生の教科書レベルで使い古された話もあったでしょう。

でもその「論破」的な姿勢に頑なにこだわっちゃうと、たぶん他者に受け入れられないのよ。これはどんな思想においても。

 

だから丸ごと全肯定されないと気が済まない、ってのはちょっと危うい。どんなに正しかろうと否定されることなんて無数にある。

実際そういった点が不満なのかもしれないけれど、これでもわりと私が「思う」思想と反出生に共通項を見出している部分もあるし、反出生にある意味で寄ってみて書いてるからね、コレ。

 

幸せ・不幸せ、快感・苦痛、っていうヒトだからこそ知覚し考えることのできる「感情」に立脚している問題な以上、

相手の「感情」を逆なでしやすい論破的発想は変な誤解を生むし、かえって問題をややこしくしてしまう。

 

というか、昨今流行りの価値観のアップデート、的な感覚でこの思想に触れた人もいると思うけれど、それこそアップデートが全て良い物とは限らないと思うわけよ。

 

例えば一部の他責的かつ攻撃的なツイフェミさんなどを筆頭に、現状を打破してより良く毎日を過ごすために新たな思想を自らに取り入れたであろうに、

まるでこの世の全てが(男性および男性社会が)汚物かのように感じたり、以前の自分なら重箱の隅レベルに感じていたモノにココロが激しく刺激されて、

日々何から何までに敵意を向けてしまうのだとしたら、果たしてそれは知って良かった思想なんだろうかっていう。

 

どことなーく反出生界隈にもそういった空気を感じてしまいがちなんだけれど、いずれにしても冒頭でも言及したように、「主義」って所詮は考える上でのツールなんでね。

それに縛られてかえってココロがかき乱されるときがあるのなら、ぶっちゃけ向いてないんじゃないかっていう。

※それこそPCみたく思想のインストール&アインインストールが自在ならいいんだけど、たぶんヒトが一度傾倒したものをロールバックするってなかなか難しいよねぇ。

 

あとはまぁ、ネットやtwitterで「反出生主義」に触れる機会があるからといって、リアルなんてクソ!これが真理だ!と思うのはまた危険。

だってネットはあくまでネットだから。ネットもツールだから。「ホンネ」と「タテマエ」が支配するリアルの人たちが作ってる場所だから。っていうか社会の一部に過ぎないし。

 

仮にネットが社会の真実の縮図であったとしても、ネットの常識はリアルに通じるとは限らない。

それはリアルの方が歪んでるからなのかな?だとすると、その歪みから生まれたネットという存在の正統性をどう捉える?ってことになる。

 

もちろんtwitterなどの言論の影響力がゼロとは言わないよ。

でもその多くはものすごーく狭い局地的な中での話だから。仮に数万、数十万フォロワーがいたとしたって、社会全体を動かすためにはまだまだ全然足りない。

だからSNS上で多くの反出生主義仲間を見つけたからと言って、それが世界の真理でもないし、自分たちが多数派と言い切れる根拠もないわけ。

 

思想的な仲間を見つけると、そりゃ誰でも嬉しいんだけれど、その同じ思想で結び付いた小さな集団ってのは時に先鋭化していく。

そしてこの国でその最悪かつ顕著な例はオウム真理教だったりする。

(ワンイシューで集った組織の中には抜け駆け、出し抜くのが好きな人もいるよね。そしてその時、自分たちだけが清廉でいられる保証は無いからね)

ただのコミュニティでまとまっている分には問題無いんだけどね、その集団の判断を確実に誤らない術はないわけ。

(だからリアル社会では、多種多様な思想がひしめき合い、共に監視し合っているともいえる)

 

常に「疑う」という姿勢。それがあるからこそ反出生主義は生まれたはず。

だから自分が見知った思想でさえ、属する集団やそのリーダーのことさえ、よーく点検してみる。これは忘れちゃいけないと思うわけ。

 

結局ね、冒頭の方でも言及したように「主義」っていうのは所詮、考え方や生き方を決める上での参考ツールであって、それに自分たちが支配されちゃったら本末転倒なわけよ。

 

まぁ今これを読めるってことはすなわちこの世にもう「産まれちゃってる」わけで、

その中で反出生主義が自分に一番合ってると思えばそれはそれでいいし、一方でやっぱ別の考え方もあるよな、はそれもまたアリなわけ。

 

別に私は中立・中庸やニュートラルな立場を気取ってるわけじゃなくってね、

どうせだったら誰かが作った考え方を鵜呑みにするより、自分たちの発想も取り入れて、

より良く無矛盾で強固な進化系(それでいて全く反出生主義とは違うモノとかねw)を作った方が面白いじゃん、と。どんなものが出来るのか興味そそられるじゃん。

(既にそんなもん通り越して最終的な境地に達してる!というなら、別にそれはそれでいいけどさ)

楽なのは分かるんだけどね、「根本解決」とか「これが正解」ってものを選ぶことは。

 

ちなみにね、適切な例だか分んないんだけどw、例えばこういう方がいる。

twitter.com

 

現状はてなブログも運営していて、私もその読者の一人。

このきつねこさんは反出生主義を掲げていて、そのテーマを一つの人気コンテンツとして仕上げているね。

 

でも一方で、それとは全く関係なく面白い記事や、片やしょーもない(失礼w)記事もあったりするわけよ。このバランス感覚がとてもユニーク。いい意味でドライ。

 

だから反出生主義ってものを広めるためには、それ一辺倒で現世に呪詛を振り撒くコンテンツになることなく、こういったきつねこさんのような向き合い方の方がより良いのかもしれないね。

大衆には一体どういったコンテンツだったら、反出生を身近に受け入れてもらえるのかという戦術・戦略の話。先述のきつねこさんがそれを意識的にやっているとしたらすごく頭がいい。

 

例えば本来、態度としては出生という「機能」そのもの(あるいはヒトにその機能を持たせしモノ)にこそ問題を投げかけるべきものを、

それを行う者やそれを良しとするもの全て(特に特定個人)に対する憎悪にも似た感情を傾けるのは、あんまり歓迎されないのよ。

他方で、たとえ言動が一致せずとも、反出生「っぽい」一部の思想のみでも自らと合致していれば、構わず仲間意識を抱いて持ち上げたりとかね(「子だくさんの」ガンジーの言葉の引用などはその好例)。なんかそのスタンスってほんと危ういなぁって。

 

いずれにしろ、果たしてどういった方法論が正解なのかってのは、月並みだけど「自分であれこれ考えてみようぜ」ってことよ。

良くも悪くもトライ&エラー。(ただしそれがそれなりに上手くいってきたのが、既存の「次世代に託す」システムというジレンマw)

まぁ結果、自分なりの思想的な丁度よさ心地よさを見つけることにも繋がるかもしれないしね。

 

長くなったけれど、まとめとしては20~30年後にまた会いましょうってことかな。これは人々の価値観が変容していくには十分な期間。

頭が良く理性的な反出生の人たちが大戦略と戦術を極めて、スムーズに思想の浸透を推し進めていくのか。

あるいは、本能に従うバカで無責任で無自覚な大衆の増殖は止まらないのか。

 

(一時的に人が少なくなっても、余った資源からより多くの利益を享受するために、増殖傾向への還流が起きやすいよね。だからある意味で政策的に反出生を進めていく必要があるのが悩みどころだと思うよ)

多くの人々が受け入れることも正しさの一要素だとするならば、20~30年後のその頃には「その時点での正解の答え合わせ」ができるんじゃないかな。

 

というわけで、ここまでで約2万字ほどw 長々と読んでくれた奇特な方がもしいらっしゃったら、お付き合いいただきありがとうございました。

★追記:関連記事

【誰でも分かる】自分の思想・主義主張・価値観を社会や世間に認めさせる方法

www.yotsumao.org